夏目漱石という作家を、僕は好きではなかった。
好きではないという感情の裏には、性格的にどこか似ていて同族嫌悪、つまらないという思いがあった。
文学をよく読んでいた若い頃は、刺激的な作家のほうが好きだった。
中学生の頃、読書感想文で「こころ」を読む必要に迫られ、一冊だけ作品を読んだ。
漱石と聞くと、あの小首を傾げた文豪然とした有名な写真が頭に浮かぶ。
NHKの「こだわり人物伝」という番組を見ていたら、この漱石について姜尚中(かんさんじゅん)という評論家が何か話している。
この評論家に対しても、漱石と同様に好きでも嫌いでもなかったのだが、話している彼の真剣な表情にひかれて、ついつい見入ってしまった。
番組の中で、とても強く印象に残った言葉がある。
「快が幸せで、苦痛が不幸」だと現代人は考えているが、果たしてほんとうにそうなのだろうか。
現代を読み解く鍵が、この言葉には隠されていると感じた。
いつの頃からか、日本人は、個性というものをもてはやし、自分が自分らしくあれば、それだけで素晴らしい魅力があるかのように錯覚してきた。
ほんとうの「自分らしさ」って、一体なんだ。
その根本的な問いを忘れたまま、自分が「快」と思うことをやることが「自分らしさ」になってはいないだろうか。
わがままや欲望の追求が、ほんとうに「自分らしさ」なのか。いや、もっと言えば「人間らしさ」なのか。
羽賀健二とかいう芸能人が逮捕されたが、彼は、お金そのものに「快」を感じている人間のように思えてならない。
世相を見ても、そんな人間がけっこう増えてきたように思う。
目の前の「快」だけを追求していて、苦痛を超えた先に見えてくる「志」を見ようとする大人が少なくなっているのだ。
志とは、成長しようとする意思だと思う。
いまの自分に飽き足らず、自分を大人の人間に磨いていこうというストイックな生き方。
現在の自分に及第点を与えてその場に立ち止まるのは簡単だ。
「自分らしさ」とは、結果であって目的ではない。
かつては人間としての品格を追求する生き方があった。模範となる大人も身近に数多くいたように思う。
いまビジネスの現場で、30代の鬱が増えている。
自殺者も30代が増えているそうだ。
企業のいちばんの働き盛りとしての担い手に、現場では、どのような精神的プレッシャーがかかっているのか。
日本の企業も、目の前の「快」に振り回されてはいないだろうか。
現代の日本は、毎朝、ニュースを見れば、誰もが、狂っていると思うだろう。
その狂気は、ひょっとしたら、今日、自分に降りかかってくるかもしれない。
もはや他人事ではない。
この狂気の原因をひとりひとりが自分を振り返りながら、少しずつ時間をかけて見直していく必要があると思うのだ。
日本が滅びへと向かうのを、一挙に阻止する特効薬はない。
コメント
「快」よりも大切なもの…
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