東京と長野とふたつの広告業界を経験して、その明暗を自分なりに感じてきました。
広告制作の現場で働く立場から見れば、どちらにもメリットとデメリットがあります。
いま、あらためて整理してみると、これからの地方における広告づくりの課題が見えてくるように思います。
30年前、東京と長野の広告制作費は?
ぼくが長野に移住してきた30年前は、東京と長野の広告制作費の差がとてつもなく大きかったのを覚えています。
長野での広告制作費は、印象として東京のほぼ5分の1くらいでしょうか。新聞広告なら媒体掲載費もローカル新聞と中央紙とでは大きな差がありますから、当然といえば当然です。
しかし、それ以上に驚いたのは、企画費の項目がなかったことです。東京では当たり前に「企画費+コピー代+デザイン代+版下代」をクライアントに請求することができました。
※版下代=デジタル化以前は写植版下というものをつくる必要がありました。詳しくは省略。
長野では「デザイン代+版下代+できればコピー代」で、企画費はもとよりコピーライティングもおまけのような感じでした。
仕事の進め方にも驚かされました。デザイナーが先に広告イメージのラフスケッチを勝手に描いてきて、「ここに何か文章を埋めてくれ」とコピーライターであるぼくに言うのです。ポカンと開いた口がふさがりませんでした。
今はそんなことないでしょうが、当時の長野の広告業界は企画やコピーに対する意識がまだっまだ成熟していなかったのですね。
なぜ、そうだったのか考えてみると、長野県には、大手広告代理店の支社が存在していなかったことが一因ではないでしょうか。系列はあっても、現在でも支社はありません。ですから、東京における広告予算の請求方程式がそれほど普及していなかったのでしょう。
バブル崩壊しても長野にはオリンピックがあった
その後、東京の広告業界はバブル崩壊とともに受難の時代を迎えます。ぼくはバブル崩壊の少し前に長野へ移住したのですが、東京の広告制作会社はバブル崩壊後にバタバタと倒産しました。首都圏のクライアントは、交際費、交通費、そして広告費の3Kをまずばっさりと削減しはじめましたから、弱小の広告プロダクションはひとたまりもありません。特に、映像系の会社が大打撃を受けました。
巷に広告制作の仕事が少なくなると、小さなパイのとりあいになります。安売り合戦が始まります。質よりも量で勝負しようというプロダクションが増えてきます。こうなると体力勝負の消耗戦です。
またクライアントの意識もこれまでのようなブランドイメージ重視から、即効性を求めるようになり、広告予算への投資はより慎重になっていきました。
面白いことに、そんな東京の動きに比べて、長野県の広告業界は、逆に活気づいてきました。
1991年、長野オリンピック開催が決定。1998年の開催までに至る約8年間は、長野県の全産業がかってないほど活気を帯びました。特にいくつかのメイン施設を用意した長野市は、道路などのインフラ整備も進みました。建設業が潤ったのはもちろん、運輸、サービス、IT分野など、ほとんどの産業が恩恵を被ったのではないでしょうか。
長野県における広告制作費は、この時期に着実に上昇していったと思います。下降線をたどる東京マーケットと、その差が徐々に縮まっていったのです。
祭りのあと、長野県の広告業界は…
しかし、当然ながら、長野オリンピックのミニバブルは、1998年以降に終わります。
祭りのあと。長野県の広告業界は、ここから厳しい冬の時代を迎え、さらに中京圏や首都圏からも制作会社が攻めてくるようになります。東京や名古屋から出張経費をかけてでも獲得したい案件が長野県内の地方自治体や一部の大手企業にはある。しかも制作現場のIT化によって、遠隔地であっても業務を受注できるようになった。また長野オリンピック開催に前後して、逆に、長野県から東京へ進出する制作会社も出てきました。広告制作に限らず、新幹線あさまは、東京とのビジネスをやりやすくしたのです。
そして2018年のいま、広告制作費は、デフレスパイラルに巻き込まれたまま、低値安定の状態が続いてると言えるでしょう。東京でも価格破壊が進んでおり、かつてほどの地域格差は感じられません。もちろん、ナショナルクライアントをつかんでいる広告代理店は、この話題の対象外です。その広告制作費は地方では想定外ですから。上を見れば、きりがありませんから。
クライアントとの距離感が違う
さて、首都圏と地方都市とでは、もうひとつ無視できない違いがあります。それが広告制作現場におけるクライアントとの距離感です。東京では企業規模が大きくなればなるほど、その経営トップと広告クリエイターとは打合せどころか顔合わせさえ困難です。ほとんどが広報宣伝の担当部長どまりです。ところが、地方都市の広告クリエイターは、けっこう大きな企業であっても経営トップである社長との打合せが当たり前です。
東京から長野へ移住してきて、広告づくりに携わる中で、そのような意思決定者にダイレクトにプレゼンできるのが、いちばん嬉しく、やりがいを感じるところでありました。
東京の仕事では、広告の新聞掲載日の寸前にゲラ刷りを見た上層部から大幅な修正指示を頂戴したこともありました。宣伝担当課長がしっかりと上司を説得できなかったお鉢が我々クリエイターにまわってくるのです。これは、けっこう大きなストレスでした。
広告づくりの報酬が多少安くても、地方では仕事の手ごたえが違う。広告クリエイターは、社長の心意気にこたえて、もっと素晴らしい広告をつくろうと情熱を傾けます。
地方都市で、広告クリエイターが生き残るには、この原点を忘れてはならないと思います。
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