告白します。僕は広告づくりが好きです。でも、最初から好きだったわけではなく、コピーライターになろうと思ったのは、なんだか、楽してお金を稼ぐことができるように思えたからです。食うための職業として、ライター家業が向いているんではないか、と。広告代理店に入って、毎日、地獄のように原稿用紙と戦っているときは、ちょっぴり後悔しました。僕には向いていないんじゃないか、と。こんなにシンドイ仕事は、ほかにはないぞ。そのうち、そのシンドサが快感になっていき、若かったせいもあって、アドレナリンを出しながら徹夜して、いい仕事ができると、マゾヒスティックな爽快感を覚え、ますます深みにはまっていくのでありました。
東京で仕事をしていた頃は、メーカー系のクライアントが多く、新商品カタログ、ポスターから新聞広告や雑誌広告などのマスメディア広告まで幅広く手がけました。広告の表現、特に言葉がチカラを持って、世の中に、どんどん広がっていくのを感じました。僕が書いたということを知らない人から、あのコピーはいいよね、と言われると、表現者として感涙モノでした。
広告をつくりながら、広告というスタイルを借りながら、そのなかに、時代へのメッセージみたいな、文化的なというか、俺たちは広告というカルチャーをつくっているんだ、どうだ、みたいな驕りがあったような気がします。モノを売るための広告が、文化になってしまったあたりから、同時に広告のパワーが失われていったのではないでしょうか。広告批評の廃刊は、とっても象徴的な出来事です。文化としての広告がここで幕切れになりました。
インターネットも広告のありかたそのものを変質させようとしています。CMの15秒も長すぎる。広告は、瞬間芸の領域に入ってきています。人が瞬きする間に、人の心をつかむような表現が求められています。
ネット時代になれば、ますますライターの需要が高まるはずだ、と僕は10数年前から叫んできました。ある意味では、当たっており、ある意味では、外れでした。ブログというカタチで表現者が氾濫してきたという意味で、当り。職業人としてのコピーライターの存在価値が薄れてきたという意味では、外れ。
それでも、やはり、プロによる広告づくりに、チカラは存在します。プロでなければ、紡ぎだせない言葉やビジュアルがあり、その価値を知っているかどうかが、これからの企業の盛衰を握ってくると思います。実は今までもそうだったんですけど、ね。特に最近、プロが軽視されるなかにあって、プロの価値を認めるというのは、勇気あるトップや広告担当者がいなければできませんから。
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