仏教の教えでは、『 五欲 』と言われている。
①食欲 ②財欲 ③色欲 ④名誉欲 ⑤睡眠欲 の五つである。
人間は、この『五欲』で動いていて、そのために様々な罪を犯している。
生きている限り、この五欲から離れることはできない。
まず個の生存を維持できるのは、食欲と睡眠欲があるからだ。
睡眠欲というのは、ただ眠りたい欲と誤解されがちだが、
楽して生きたいという、怠惰さの欲も含まれている。
さすが、仏教の教えは抜かりなく、深い。
さらに種の生存を維持できるのは、性欲があるからだ。
また財欲と名誉欲があるから、いわゆる社会的な生活が営める。
たとえば、人は朝起きて、食欲に動かされパンを焼き、
会社へ給料を稼ぐという財欲で通勤し、
上司に認められたいと名誉欲を発揮し、
帰りの電車内で、ちょっといい女に色欲を覚え、
自宅近くの居酒屋で一杯、呑むという食欲にまみれ、
ほろほろ加減で帰宅して、睡眠欲に襲われる。
人は欲にまみれて生きている。これは逃れようがない。
そして、この欲こそが苦しみの元凶でもある。
どの欲も、満たされないとき、人は苦しみを覚え、
満たされたとしても、もっともっと、と欲は果てしがない。
満たされても満たされなくても、欲の先には苦しみが待っている。
どうすれば、この苦しみから逃れられるのか。
どうすれば、人は幸せを手に入れられるのか。
教えでは「煩悩即菩提」と説かれている。
五欲に振り回されている自分の本性に、いかにして気づくか。
自分が煩悩の火に焼かれていることを、どれだけ知り得るか。
煩悩とは、菩提=悟りの契機となりうるものであり、
煩悩なくして、けっして悟りはありえない。
煩悩を悟りの契機とするためには、自分自身を知ることだ。
日常生活では、それほど意識されていない煩悩がある。
自分自身の内側、ドロドロの魂に、どれだけ踏み込んでいけるか。
自分の本性を知って、自分は恥ずかしい存在だ、と覚悟できるか。
生きているのは、恥の上塗りをしているようなものだ。
それを恥と感じない輩たちを、いわゆる破廉恥と呼ぶ。
そう指さす自分自身も、破廉恥にしばしば陥っている。
まだまだ、無明の闇。まだまだ、酔生夢死。
欲にまみれ、煩悩に苦しみ、それが日常である我らは、
いかに素晴らしい教えに出会っても、
そこから菩提の境地にはなかなか辿り着けない。
いや、菩提とはどこか遠くへ辿り着くものではなく、
内なる魂にこそ、きっと、その到達点があるのだろう。
小賢しい知を捨てて、それを身をもって行じられるか。
まだまだ、だな。まだまだ、だね。
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