オリジナリティとは何か

生きる
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オリジナリティ、個性というものは、
じぶんの身体で感じることから生まれる。
だから、誰もが平等に持っているはずだ。
きちんと生きていれば、人は皆オリジナリティに満ちている。
ちっとも難しいことではない、はずだ。
難しくないのに、いざ、オリジナリティのあるものに
出会ったときの人間の反応は、ややもすると否定的になる。
常識はずれとか、空気を読んでいないとか、
協調性がないとか、同調圧力の風がビューンと吹く。
これは、どうしたことだろう?
あんなにオリジナリティを称賛していたのに
独自な個性が眼の前に現れると怖くなるのか。
じぶんと直接的な関係のないテレビの芸能人であれば、
オリジナリティのある人間がもてはやされるのに。

人は生まれたとき、誰でもオリジナルな存在だ。
しかし、徐々にその独自性が失われ、
大人になって気づけば、金太郎飴のように
似たりよったりの無難な思考法に落ち着いて、
生まれたてのオリジナリティはどこへやら。
親のしつけ、学校の教育、社会のしがらみなどの
さまざまなルールによってがんじがらめにされる。
社会の秩序を維持するためには、
現状を維持することが第一優先だから。
現代はネットに情報があふれすぎているから、
よけいに借り物の思考が幅を利かせるようになる。
ググって解決できることはたかが知れている。

ときにオリジナリティは破壊の女神を伴って出現する。
出たものは、叩かれる。それでも出れば、革命者になれる。
一般論として、それはわかってくれるだろう。
問題は、身近な人のオリジナリティだ。
抜き出た個性は、周りが手を焼いてしまう。

それと問題をややこしくしているのは、
じぶんにはオリジナリティがある、
と多くの人が勘違いして生きていることだ。
囚われの思考に気づいていない。
眼が開いているのに見えていない。
これを言っておけば無難だろうという会話。
これをやっておけば大丈夫だろうという行動。
安全パイを握っていなければ不安になる。
そういう土俵の上で、個性を表現している。
それを本当の個性と呼んでいいのか。

社会の潤滑油としての処世術。
悪いことではない。否定はしない。
ただ、それを意識して、やってるかどうか。
無意識で処世しているのは危険だ。
いつか、大きな舵をきり損ねるだろう。

集団の中に身を置くのは安全。
会社、学校、サークル、仲間、家族、そして恋人、夫婦。
孤独に耐えられないのが人間の性だから。
そう言ってしまえば、楽になれるだろうね。

新年早々、オリジナリティについて考えている。
じぶんを生きるとはどういうことか。
結局、そこに向き合うことになる。
じぶんの皮を剥いでいくと、たまねぎのように芯がない。
タネがあると思っていた場所に空虚が広がっている。
これはアカンとトンカチで豆腐アタマを叩く。
グシャグシャグシャ、われは愚者なり。
ここから、新しい年を始めよう。

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