そろそろ次のこと

生きる
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見渡す限り広大な大地に置かれた巨岩は、長年、激しい風雨にさらされ、表面に変化があったとしても、それは微妙な変化であるだろう。その岩が、渓流に置かれた場合は、年月とともに丸みを帯び、暴れ狂う濁流に呑み込まれ、その場所を下流へ移動することもあるだろう。その岩が、崖に置かれた場合は、大きなエネルギーを放つ雷によって打ち砕かれ、そのまま崖下へ急降下することもあるだろう。

自然の猛威が平等に岩にもたらされたとして、その環境が違えば、岩の表情はまったく異なったものになる。だが、残念なことに、岩は岩のいる環境を選べない。

若い頃、「因果律の法則」という言葉を知った。どんな物事にも原因があり、その結果がいまに反映されている。どんな自然界の法則もこの因果律からは逃れられない。人間は自らの意思で生きているように見えても、実は、何かの原因によって選ばされている。因果律の法則に支配された人間には、自由意思なんてものはないのだ。唯一あるとすれば…因果律からの脱却をするには自ら死を選び取ること、つまり自殺こそ、究極の自由意思の発露である、とする考え方に触れた。ニヒリズムにつながる、このような考え方の系譜がある。古くは、親の因果が子に報い、というではないか。さらに、輪廻転生をふくめて、過去に原因を突き止めようとする考え方は、神秘主義との親和性が非常に高い。これは、「いま」の自分の在り方を、過去によって決めようとする方法。「いま」を弁解するためには、過去を持ち出せば都合がいい。だが、これこそ、我々が時間の奴隷になっていることの証明ではないか。時間が過去から現在、そして未来へ流れているというが、本当にそうなのか。そう思い込まされているだけではないのか。

「生きる」ということは、つねに「いま」にしかない。人は、過去を生きることも未来を生きることも本来はできない。呼吸して、生きているのは、つねにいまだ。シンプルな事実なのに、なぜか、人は、過去に縛られ、過去に拠り所を求め、無意識に過去を生きようとする。いい大人が幼少時のトラウマから抜け出せずにいるのがいい例だろう。いい大人が過去の栄光を語りたがるのも同じだ。

「生きる」とは、どういうことか。もし、「いま」の自分の原因を過去ではなく、未来にあると想定したら、どうだろう。あなたは、怖ろしく感じましたか、それとも、その通りと感じましたか。

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