もう、この年齢になると、誕生日だからといって、どうってことはない。ただ静かに、年齢がひとつ加算されるだけだ。十代の頃、夭折した作家に憧憬の念を持っていた。ランボー、ラディゲ、モーツアルト、エリックドルフィー、日本人なら中原中也、宮沢賢治とか。作品の素晴らしさはおいといて、若いままの美しい姿しか残っていないから、それがよけいに美しい人生とだぶらせて勘違いしてしまうのだな。才能がありすぎて、神様にあいされたから、ひとよりも早く天国にめされてしまう。そんな感傷じみた思いが、夭折した作家の人気に拍車をかけているのだ。だが、才能と夭折の間に、相関関係はない。いまは、はっきりとそう思えるようになった。年齢を重ねたからこそ生まれる作品だって、世の中には、たくさんある。感受性のピークは若い頃だから、若い時期の作品に傑作が多いのではあるけれど。とりとめのない文章になってきたが、ようするに、夭折するのはズルイ。もっと長生きして、もったたくさんの人を感動させるような作品を生み出しなさい。それが、才能を授かった人の大きな使命なのだから。
コメント
人はそれぞれの年齢で、
その生きる時代のその人の環境に於いて、
その時にできることしかできないように思いますが、
そのような意味で、作品というものは
その瞬間の作家の才能から生きている環境をも含めた
すべての要素の集合体であるような気もします。
音楽の合奏では、それぞれのミュージシャンの力が融合して、
特に、即興でやる音楽の時には、
予測できない、すごい音楽になったりすることもあります。
それぞれの人がこの世界に滞在できる時間のことを考えると、
ただ拝むしかありません。 合掌
音楽は、もっとも純粋な芸術であると言った哲学者がいます。音楽は、人間が生きているタイム感覚を表現しているように思います。
それに比べて言葉というのは論理構造を持っていて、一部の実験的な詩ではその論理構造を破壊しようとするのですが、それも論理的にであり、思考というフィルターを通しています。フィルターを通す限り、感性へのダイレクトなアピールは難しいでしょう。絵画などのビジュアル表現は、空間を切り取る作業であり、そこに時間を感じさせようとしても、表現としての時間は止まったままです。
いずれにしろ、いまを生きている人間として、何ができるのかが大切なんですよね。逆瀬川さんの「すごい音楽」の一端を知っている僕としては、ひさびさにあのタブラを聞きたくなってしまいました。