頑張るというのは、もう、聞き飽きた。というか、頑張るしかないっしょ。でも、ただ頑張ればいいのか? 頑張ったって、どうしようもないことだって、たくさんある。そんなあれやこれや、世の中のやるせなさを含めて、頑張るとしか言いようがないわけで、どうする?どーする? 日々の仕事や家庭、学校の営みの中で、前へ進んでいくには、まずは足を一歩前へ踏み出そう。それをシンプルに「頑張る」というわけだ。
しかし「頑張っている」というのは、とても主観的な言い訳の言葉になりがちである。成果が出せない。でも頑張っている。いまはマイナス。でも頑張っている。怠けているように見える。でも頑張っている。
頑張っているのに、それがうまくいかないのは、何か阻害要因があって、それを理由にしたいとき、頑張っているんですが…と使われる。
頑張るのはあたりまえ。単なる必要条件だ。
そこで、こう聞いてみよう。
「それなら、いのちをかけているか?」
いのちをかけて、仕事に取組んでいるか。いのちをかけて、勉強しているか、夢に向かっているか。頑張ってはいるんだけど、「いのち」といわれると、そこまでは…と尻込みする人が多いのではなかろうか。
何かを達成できないのは、達成できない程度にしか頑張っていないからだ。御意。
このような根性至上主義の体育教師みたいな言い草に、若い頃の僕はかなりの抵抗があった。父親もどちらかといえば、経験至上主義で浪花節をふりかざしていたから、そのことに対しての反抗も強かった。「いのち」をかけて、「死に物狂い」で生きてきたといわれても、ちっとも心に届かなかったのである。しかし今は、高度成長期でぬくぬくと育ってきた自分のことが、逆に、申し訳なく、ダメダメな性格を恥ずかしく思うようになってきた。
野性の欠落、死とフェロモン、そして、いのちがけと、現代人=自分に足りないものって、けっこう本質的なものばかりのように思うのだ。
コメント
Go ahead, and take it easy!
「いのちを賭けるな。こころを掛けろ!」
なんてのもありなのでは。
>習志野 権兵衛さん
コメント、ありがとう。
そうですね。いま「いのちを賭ける」は時代錯誤なんです。
たしかに「こころを掛けろ!」も、難しいことですが、
ちょっと、つまんない気がします。
間をとって、「こころを賭けろ!」なんて、どうでしょう?