情報洪水による溺死を考える その1

Web論
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 インターネットの黎明期からその前線にいた自分としては、最近、よく思うことがある。

「こんなフウになるはずじゃなかったのに…」

 40年くらい前はパソコン通信という器があって、日本中の人と文章で会話しながら、自分の意識が拡張していくのを実感した。そう、意識の拡大というか、普通なら知り合うことのない遠くの人と意見を交換することの楽しさに夢中になった。もっと前であれば、アマチュア無線というものがあって、それにより様々な人と交流することができた。(自分も小学生の頃にハムの免許をとった。更新しなかったけれど…。)
 遠くの誰かとつながりたい。そんなシンプルな願いを叶える魔法のツール。それがアマチュア無線であり、パソコン通信であり、やがてインターネットへとつながっていった。
僕はどうして、そのような仕組みに夢中になったのか。
ひとつは、身の回りにはいない特殊な人達とつながりたかったんだと思う。ネットの中には、いまは作家になっている人や天才的なプログラマーとか、おもしろい人達がたくさんいた。

 それと、もうひとつ。

 若い頃の僕は、「世界が平和になる方法」は何だろうというロマンチックな命題をけっこう真剣に考えていた。そして、その答えのひとつがネットのなかにあるのではないか、と。ユングという心理学者の集合無意識や共時性などの理論。それと、インターネットによる意識の拡大や共有が重なり合うのではないか、とも思った。インターネットが普及していけば、きっと、世界はひとつになる。人類のバカバカしい戦争の歴史に終止符が打たれるはずだ。そんな、脳天気な幻想に酔いしれたりもした。

 でも、ね。当時から、ネット炎上騒ぎや喧嘩は、あったんだ。人間の闇の部分が浮き彫りにされる。そちらの勢力が強くなれば、世界平和どころか、罵詈雑言、嫉妬、排除、差別がたえない地獄のような未来予想図が描かれる。

 ネット社会はある程度自制心がきいた小さなコミュニティであるうちは良いのだけれど、一定の規模を超えると制御が効かなくなってしまう。これも一般の社会と同じなんだな。仲間内で認め合う人たちだけがいれば快適。組織というのは微妙な人間関係のバランスで成り立っている。それが、崩れ始めるのは、組織が拡大するに伴って、微妙なニュアンスを理解しない人たちが増えてくるからだ。小さなすれ違いがやがて大きな溝になり、嫉妬や差別という感情も生まれるようになる。

 あ、長くなりそうだから、続きはまた後日。

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