ある建築家の方と話していて、住宅を設計する際のスケッチを見せてもらった。鉛筆をメインに使用して、黒のボールペン、たまに赤のボールペンが入っていて、ラフに描かれている。それは建築家の頭の中で、ぐるぐるとイマジネーションが広がって、それが収束していくような創作の現場の生の感じが伝わってきて、けっこう面白かった。
いま、建築の世界ではCADが当たり前になってきて、設計図からコンピュータに向かって、その完成予想図も3Dで描かれるケースが多いそうだ。
建築家のイメージがカタチとなって立ち上がってくる創造のプロセス。デジタルをツールとして使う場合は、そのプロセスはハードディスクの中で眠っている。アナログであれば、描かれたノートは作業机の引き出しの中で眠っている。建築家は、デジタルであろうがアナログであろうが、同じようにイメージを膨らますのだと思う。ただ、デジタルにおけるプロセスは、CTRL+Zというやり直し機能で甦る単なるNGの集積のように感じられる。アナログにおけるプロセスは、そこに発想のヒントが隠されているアイデアの集積のように感じられる。
デジタルは、プロセスを無化する作用があるのだろう。完成品だけに価値があって、途中の試行錯誤はゴミ箱に行けばいいのだ、という思想がデジタルには感じられる。逆に、アナログは、プロセスにも、何らかの価値があるのだ、という思想の現れのように感じられる。
われわれが作品に接して感動を覚えるのは、最終的なカタチか、それともプロセスを含めてのものか。例えば、私小説を読むとき、作品そのものに迫ればそれだけでいいのか、作者の人生も含めてストーリーを味わって解釈するのか。
結果を重視する時代。すべてにおいて結果だけしか、価値判断の材料にはならなくなっている。成功か失敗か、イチかゼロか。特にビジネスの世界では、それが正しい判断と思われている。努力したけど、ダメでしたなんて、言い訳をするな! マルかバツかはっきりとさせろ。そう言われると、正しい意見のような気がするけど、ここに落とし穴がある。
プロセスがあって、それで完成品に至らないとしたら、どうだろう。永遠にプロセスに立ち止まっている。実は、それが、人間のありようなのではないか、と思ってみたりした。
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