お彼岸です。今年の夏のお盆は忙しく、あわただしく、今は少し落ち着いて、しかもお彼岸だから、お墓参りをしようと思いました。僕は父が42歳の厄年に生まれた子供。父は僕が35歳のとき、母は僕が46歳のとき、亡くなりました。父母が眠っている霊園は、関越自動車道の坂戸鶴ヶ島インターを降りて、そこから約30分ほどの毛呂山にある武蔵野霊園です。昨日は、小雨模様でしたが、お彼岸のお墓参りということで駐車場は満杯でした。
最近は、千の風のヒットの影響で墓石の売上がかんばしくないようです。千の風になってしまったならば、このお墓に、亡くなった人たちはいません。それは合理的な考え方です。それでも、なお、お彼岸となれば、お墓へ出かけて、亡き父や母に話しかけようと思う日本人がたくさんいます。親父だったら、かぁちゃんだったら、こういうとき、どのように考えるだろうか。どのように行動するだろうか。日本人は、お墓やお仏壇の前で、ご先祖様に手を合わせ、対話をするのですね。
お墓でお祈りをしていると、血の連なりを思います。ご先祖様から連綿と流れ、それが自分の中にも流れ、子供や孫にも流れていく、その血の連なりを思います。日本人の宗教観の根底には、この祖先崇拝というものがあって、神道は無論のこと、仏教だってご先祖様をうまく取り込んできた歴史があります。キリスト教ですら、かつてはマリア観音という名前で母の面影を重ねました。
日本人が「バチが当たる」というとき、それは神様の罰か、ご先祖様の罰か。唯一絶対無二のゴッド、大日如来、アマテラスオオミカミよりも、ちょっと前まで生きていた、いい人生の手本となったおじいちゃんのことを思い浮かべ、叱られてしまうという感覚を持って、「バチが当たる」と言うのではないでしょうか。
現代は、「バチが当たる」という言葉も聞かなくなりました。自分も言わないし、人からも聞かない。年寄りのいる家庭では、聞くことがあるのかな。僕の親は大正生まれですから、ぎりぎりでこの言葉を聞かされました。いまは年寄りといっしょに暮らす家庭が少なくなりましたからね。振り返れば、戦後の都市部への人口流入は、親と子供だけの世帯「核家族」をつくりました。これはもう当たり前になって、もはや「核家族」という言葉も、死語になってしまいましたね。
社会から、非近代的な呪文がなくなって、衛生的に合理的に管理されるようになって、でも人間という存在は、そんなに合理的なもんじゃなくって、一見すると「バチ」がないように見えるけど、実はとんでもなく大きな「バチ」が巡ってきているように思います。お墓参りをして、そんなことをつらつらと考えてみるのでありました。
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