アタマでっかちになりがちだったのは、親父があまりにも経験が大事だということを主張してきたからだ。
経験がない若い僕が考えたことは、それではいくら正しくてもすべて否定されてしまうのか。
そんなひねくれた考えの中で、屁理屈が増殖していたのだ。
世の中には、正しい意見とそうでない意見というふたつだけがあるのではなくて、意見とか考えはいつも生き物のように生きていて動いていて変化しているのに、それが若い僕には見えなかった。
いまは、経験というものの価値がよくわかる。
でも、経験という言葉だけだと取りこぼしが多いように思う。
実際、他人の経験は、そく自分の経験にはならないし、他人が経験で得た知恵はよほど強く意識しないと自分のものにはできない。
強く意識して意識し続けて、それ自体が継続して経験となったときに、初めて身につくのだろう。
昔は丁稚奉公という修行形態があった。
いまはメンターとか、いろいろなシステムが出ているようだが、根っこは同じように思う。
意識の持続による経験則の体得だ。
経験という言葉は、でも、いまだに僕にはちょっと抵抗がある。
それよりも、呼吸といったほうがしっくりくる。
生身の人間にどのように対応して、どのように反応して、どのように同意を得ていくか。
それは、経験という、あれがこうしてこうなったという、文章に書けることではなくて、もっとライブ感あふれる、生々しい感覚。
意見が動くのではなく、人の心が動いていくのだ。
コピーとかコンセプトをつくるとき、僕は、まず、人に会うことから始める。
当たり前といえば当たり前だけど、こういう時代だから、ネットだけですべてが始まり、終わってしまう関係というのもありえないことではなく、実際、そういう場面もあるのだが、作業を進めるなら、それでもいいのだが、仕事を進めるには、やはり、会わなくちゃ、ダメだ。
そこに発想のヒントがある。
僕は、仕事を進めていく上ではいつも現場主義なのだ。
会って話をする。呼吸をはかる。空気を読む。相手に返す。意見を汲む。意見を通す。合意に持ち込む。
これが見事にできる人間に、たまたま最近接する機会が多くなった。
とても勉強になる。
僕は、まだまだ未熟だから、この辺の極意を体得するには、やはり、このような素晴らしい人格者にたくさん会うことが大切だな、とあらためて思った。
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