つい先日、中居くんの番組で紹介されていたのが、元男性の女性、椿姫 彩菜さんだ。
性同一性障害という名の病を持って生まれ、タイで性転換手術を受け、戸籍の性を変更した女子大生である。
家の用事をしながら見ていたので、細かなところのコメントはひかえるが、僕自身、勉強不足であったのだが、いまは戸籍の性が変更できるんですね。
いろいろな条件があって、性別適合手術を受けていることも必要なようだ。
平成16年の7月から施行されたので、まだまだ歴史は浅い。
性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律 – Wikipedia
心は女性なのに、男性としての肉体を持って生まれた。
その精神的な疾患を、性同一性障害と名づけることによって、時代の理解度がぐんと深まったように思う。
名づけることによって、同じモノゴトが異なるポジションを獲得して異なる意味を主張し始める。
もうひとつ、書名にあるように、「男子校出身」という言葉も気になった。
ふつう、出身という言葉は、生まれた地名と対になっている。
東京出身、長野出身、遠野出身、世田谷出身…。
しかし、この著者はここでコピーライター的なレトリックを使うことで男子を出自とする「わたし」女性であることを宣言した。
今までは、もと男子の「?」というカッコつきでしか語れなかったのだが、これからは「女性」としての性を社会的にも生きられるようになる。
出身は過去に由来する言葉。出身を辿ることによって、自己のアイデンティティを確認したり、生き方の見直しを図ったり、ふるさとを恨んだり誇りにしたり、人それぞれの思いがあるだろう。
出身とは、その人間の過去であるけれど、現在に連なる、現在を現在たらしめている過去だ。
生んでくれる親を赤ちゃんが選べないように、僕らは過去を選べない。
男子出身であることが彼女を彼女たらしめているアイデンティティであることに変わりはない。
性別というのは、生命の根源的な問題だから、その性を変えるということについて、安易に論を述べることはできない。
また僕には語るだけの背景がない。
ただ、言葉に携わる人間として、「性同一性障害」と「出身」というワードが気になったのだ。
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