死者との交流

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いま、こうやって、ここに生きている。
僕は、この生は、いったい何なのだ?
実存の意味を問うてみた、もう遠い昔の話。
悶々とした日々を過ごしてきた学生時代。
答えなんか見つからないけれど、自問自答しつづけた。
ほんとうに、生きていることに価値なんかあるのか。
自分の生は、自分でコントロールできるのか。
人は条件反射で、いわゆる常識でしかモノを考えられない。
そもそも自分自身の自立した思想というのは存在しうるのか。
ペシミズムという悲観主義の罠にまんまとはまり、
自殺こそ究極の自由ではないかと思ったり…
まぁ、思想的に暗いクライ青春でした。
それから、結婚して子供ができて成人して、
ひと通りのいわゆる人並みの生を過ごしてきて…
父が亡くなり、母が亡くなり、親戚が徐々に少なくなり、
友人や知人の葬式に参列する機会も増えて…最近、思うことがある。

我々は死者をないがしろにしてきたのではないか。

昔、僕の知る限りの昔は昭和30年代だけれど、
もっと、死というものが身近にあったように感じる。
あの世とこの世を隔てる膜が薄かったのだ。
ご先祖様というのは、親からよく聞かされ、
故人であってもリアルに存在していた。
お化けというのも、暗闇や空き地に
ほんとうにいそうな気配があった。

かつては死者と生者を結ぶ、お盆という行事が
しっかりと節度と敬意を持って執り行われていた。
僕は、次男坊なので親元から離れ、
同時にそういう行事からも遠くなってしまった。
そういう核家族化の流れ、その反省の意味も込めて…
我々は、死者をないがしろにしてはいないか。
死が重くないから、生を軽んじる。
生というのは連続性のなかでのみ意味を持つ。
ちっぽけな個に拘泥しすぎてはいないか。
潔癖症に囲まれて、窒息してはいないか。
おどろおどろした因縁、非衛生な環境にこそ、棲みつく何かがいる。
そんな異界との通路は、まだ塞がれたままだ。
東北大震災は、少しだけ、扉を開けてくれた。
しかし、まだまだ、その隙間は小さい。
すぐ隣の異界へ、さて、扉をねじあけて、
小さな一歩を踏みだそうか。

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