コピーライターはいま何処に?

例年なら、お盆を過ぎたあたりから、やや涼しくなるのがここ信州の風土です。でも今年だけは、もう明日から9月だというのに、連日35度前後という暑さ。なんたること残暑、と赤塚不二夫イヤミ風のオヤジギャグを言いながら、過ごしていたら、群馬の前橋にいる友人から電話がかかってきて、先週末、うちの事務所を訪ねてきました。東京にいた頃、同じ広告制作会社で働いていたK氏です。僕より5歳ほど上の先輩です。

20年以上前のK氏は、敏腕AE、いわゆる営業として、昼は、広告代理店や印刷会社、そして直クライアントをかけずり回り、夜は、接待と称して六本木や赤坂のクラブに出没、休日はゴルフ三昧…まさしく、寝る間を惜しんで仕事に没頭していました。

僕はK氏と組んで、営団地下鉄のマナーポスターをはじめ、芸能人を使ったキャンペーン広告など、いくつかの楽しい仕事を手がけました。バブルの絶頂で、こなしきれないほど仕事がたくさんありました。

彼との仕事の進め方はこんな感じです。クライアントからの依頼案件を、彼が会社に持ち帰り、僕と30分くらい、軽く話し合う。で、だいたいの方向性が決まります。それから、今度は僕がうんうん唸ってアイデアをいくつか出して、再度ミーティング。コンセプトとコピーはもちろん、デザインの方向性もここでふたりで決めます。それから若手のデザイナーに「よろしく」と仕事を依頼する。そう、デザイナーには申し訳なかったのですが、プラン主導型の進め方でした。スピードとテンポが要求され、次々に仕事をさばいていく感じでした。

どちらも30代でとても情熱的でした。おたがいの才能に敬意を表していました。時代はバブルの絶頂ということもあり、いい仕事をすれば、相応のギャラもついてきて…。しかし、僕らの表現だけはバブルに踊らされてはいませんでした。

どちらかというと人間の心理やロマンを見つめ、そこから発想した広告づくりが好きだったのです。それが許されたのも、バブルの所以かも知れませんが…

いまはもう、ふたりとも白髪まじりの50代。K氏は東京を離れ、群馬で15年ほど頑張ってきました。僕は長野で20年ほど、同じ業界で、やっています。久しぶりに会って、長野の繁華街で、深夜までお酒を酌み交わし、その中で、地方都市の広告業界の話題となりました。K氏は日本酒を飲みながら、こうぼやきました。

「ライターはたくさんいるんだけど、コピーライターがいないんだよね」

お店を取材して、雑誌の原稿を書くのがライター。お店を取材して、どのように広告すれば売上が伸びるか。お店の好感度をアップさせて、買う気をそそるには? そういうビジネス目線で広告づくりを考えて、カタチにするのがコピーライターの仕事です。

地方都市では、広告の需要はあっても、コピーライターを必要とするほどの広告づくりは少ない。20年以上前に、長野のデザイン会社で、僕はデザイン主導の広告づくりを目の当たりにしてカルチャーショックを覚えました。文字のスペースだけ空けてデザインされたラフスケッチを見せられて、「ここに文章を埋めてよ」と言われたのです。地方都市では、専業コピーライターは不在で、営業もしくはデザイナーが文章を考えるのが当たり前でした。

いまでは、多少は改善されましたが、それでも、まぁ、広告費に充てる予算が削減され、より安くを求められる中で、企画費とかコピーライティング費とか、ぜんぶまとめてデザイン一式というのがローカルの風潮。そもそもコピーライターになろう、という人が減ってしまうのもいたしかたないかも知れない。

広告の文章、コピーそのものは、どんな場合でも必要です。そしてメールマガジンやWEBを含めて、広告的な文章を必要とされるフィールドがどんどん広がっています。マーケッターとか、ブロガーなんかも、コピーライター的な職域を浸食しながら、その職種を確立しつつあります。

これからはコミュニティマネージャーという職種も、コピーのスキルを生かした仕事として注目されそう。これは、Facebook、Twitter、BBS、企業内ネットなど含めたオンラインコミュニティでコメントなどを確認し、参加し、他の人たちと関係を作るのが仕事だそうです。

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これからの時代、コピーライティングのスキルは、ますます重要になってくるはず。それだけは間違いありません。「コピーライター」という名前は、その賞味期限が切れたとしても、名前を変えて、そのスキルの重要性に対して、認知度が高まることを、僕としては大いに期待しましょう。

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