「東京プリズン」を読んでみた

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赤坂真理という作家の存在を、僕はまったく知らなかった。今日の仕事、明日の飯、現実的な対応に右往左往しているいまの自分にとって、ブンガクは遠い過去の記憶になりつつあった。読むきっかけを与えてくれたのは、1964年生まれの男、Sちゃんである。

Sちゃんと呑む機会があった。そのとき、僕はかなり酩酊して饒舌になっていて…アメリカが犯した日本に対する戦争犯罪について、なぜ、日本は総括できないのだ、でもアメリカの音楽は素敵だぜ、とくだを巻く酔っぱらいだった。でも、アメリカに対する愛憎渦巻く、こんな感覚は1964年生まれのSちゃんにとってはわからないんじゃないの? と無礼千万な水を向けたところ、いやいや、とんでもない、ずっと違和感を感じている、と。へぇ、そうなんだ、ふむふむ、そうか、父親がシベリア抑留体験していたのか、うちの親父といっしょじゃないか、そうか、ありきたりの「世代」ではくくりきれない、個人史があるからなぁ、さもありなん。

そんなSちゃんと同じ1964年生まれの作家で、赤坂真理が面白いという。彼の強力なすすめで「東京プリズン」を読む気になった。2012年の発刊。しかも分厚い単行本である。老眼の進んだわが目は、440ページの大作を読むのにネを上げないだろうか?

読み始めて2日目、150ページ読了、ひさびさの風邪で寝込んだ。寝込んだついでに、もうろうとしながら200ページ、そして完治してから読破した。読破できたのだから、小説としては、たいへん面白い部類に入るだろう。

ただ、僕の率直な感想は、心の導火線まで火がつかない、不発弾の物語であった。作者は、天皇の戦争責任という重いテーマを、ファンタジーを介在させることでしか扱えない。これは、納得できる。ならば、ファンタジーが強烈なリアリティを持つことが必要であろう。残念ながら、この一点、作者のファンタジーに僕はついていけなかった。まず主人公であるマリ・アカサカに、共感できなかった。1980年に16才のマリは、現在の49才の真理と通底する存在。母娘という関係の必然が、僕にはわかりにくい。また幻想シーンでヘラジカが出てくる度に、宮崎駿的なイメージと重なってしまい、物語に入っていくのを阻害した。わがままな僕としては、もっと、幻想シーンに酔わせて欲しかったのかもしれない。

とまぁ、イマイチだなぁと思った部分を先に書いたが、それでも、このテーマを扱った作者の心意気に、僕はともあれ感動した。戦後生まれが日本人の大勢を占めて、戦争体験が風化する中にあって、いま一度、あの戦争が何であったのか。あらためて問い直すきっかけをあたえてくれる本である。

1964年生まれのマリがアメリカで感じた、あの戦争についての違和感は、まだ個人的な感覚に留まっている。だが、時代は、この感覚を共有できる新しい物語を、戦後70年にして、ようやく求め始めているように見える。作家の気づきは、時代の気づきと符号している。それゆえ、我々は、より思慮深く、よりきめ細やかに、この気づきの行方を観察しなければならないだろう。

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