五木寛之の「歎異抄」を読む

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 友人から借りて、五木寛之の訳した「歎異抄」を読んだ。わかりやすい現代語訳で、頭の中に、染み透るように言葉が入ってきた。

 『善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや』という原典の有名なフレーズを、「善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない」と素直に訳している。

 五木訳の真骨頂は、この言葉に続いていく以下のような文章である。

 『悪人なほ往生す。いかにいはんや悪人をや。』を、「あのような悪人でさえも救われて浄土に往生できるというのなら、善人が極楽往生するのはきまりきっていることではないか」と。さらに原典では『この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。』とあるところを、「そのことばは、なにげなく聞いていると、理屈にあっているように思われないでもない。だが、あらためて阿弥陀仏の深い約束の意味を考えてみると、仏の願いにまったく反していることがわかってくる。」

 このように文章がやさしく訳されていると、今まで読んだ印象とは、かなり異なったものになってくる。何よりも、意味に集中できて、すんなりと理解できる。今まで、わかったような心算で読んでいたのだが、実は曖昧にしか、わかっていなかったのだ、ということがわかってくる。

 「他力」という浄土真宗の教えは、キリスト教に相通じるところが多い。アバ(父ちゃん)に絶対的信頼を寄せ、幼子のような心でなければ、天国への扉は開かれない。自己の放擲によって開かれてくる彼岸の悟り。それは、洋の東西を問わない、宗教のひとつの境地と言っていいだろう。

 歎異抄の著者は、親鸞の弟子である唯円とされているが、その題名通り、親鸞の死後、親鸞の教えが間違って伝えられていること、「異」なっていることを「歎」いてかかれたものである。

 鎌倉時代から遠くはなれた平成の現代において、「歎異抄」という仏教書はどのように読まれているか。知的な団塊世代だけの知性を証する書物に堕していないだろうか。風化する宗教、風化する言葉たち、そこ新しい生命を吹き込むのもまた、現代を語り続けてきた作家の使命なのだろう。

 いずれにしろ、「歎異抄」を読み、久々に自己の内面を振り返ることができた。

 感謝。合掌。


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