個人情報がない社会は、のっぺらぼうだ

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娘が通っていた高校のPTA役員をしたことがあって、もう5年以上も前の話。そのとき、いままで配布されていたPTA名簿を今年からは廃止します、という現場に立ち会った。個人情報保護法が2003年(平成15年)5月23日成立、2005年(平成17年)4月1日全面施行。ちょうど、その前後、僕は役員をやっていたのだ。一年前までは、普通に配布されていたものが突然なくなる。まぁ、こういう情報をもとにして、DMとか電話をかけて勧誘するとか、そういう手の営業が多いのだろうな。というくらいの気持ちでそのときは受け止めていた。

3年前、息子の大学でも保護者会の役員になってしまった。こちらは、年に数回の会合に参加するだけのラクな役ではあったが、やはり、名簿がない。年に一回、地区ごとに会合の場が持たれ、参加した保護者たちは大学の教授からキャンパスの様子を聞いたり、子供の成績の話をじかに相談できたり、けっこう有意義な会である。しかし、保護者と先生はつながっても、保護者同士のつながりは絶たれている。

オフィスにはシュレッダーが完備されるようになり、名簿を扱う業者は漏洩のないよう契約書を取り交わすようになった。個人情報に対して、社会全体が神経質になり、それが漏洩したらひょっとしたら悪用されるのではないか、と誰もがビクビクするようになった。

そもそも個人情報の保護という考え方は、情報化の進展にともなって、大量の個人情報が一挙に処理できるようになったことを背景にして、その乱用を防ぐために生まれた。いま、僕のメールボックスには毎日200通以上のスパムメールが舞い込む。ほとんどが英文のDMメールだが、日本語のスパムも多くなってきた。どこかで、僕のメールアドレスが流出して、それがさらに広がっているのが実感でわかる。個人のメールアドレスはデジタル処理されることによって、DM送付先アドレスとして時には有料で売買されるデータベース・コンテンツになっている。

安心・安全な社会を求めて、いま、何をすべきか。この課題に対するひとつの答えのように、個人情報保護法は成立されているのだが…

例えば、僕たちが暮らしている周辺では、アパートやマンションの表札から名前が消えつつある。これは個人情報保護法とは直接的な関連はないが、個人を特定する情報は隠したほうがいいんじゃないか、という社会的な通念が広がっているように思う。

トナリの人が何をするかわからない社会。だから、名前なんか出したら危険だ。トナリの人が誰であるかわからなくてもいい。挨拶なんかして、好印象をもたれて、逆に、襲われたらどうしよう? こわい、こわい。近寄らないほうがいい。なるべく、他人との接触は避けたほうが無難だ。

そんな時代…ですよね。

でも、ほんとうに安全な社会って、ちょっと違うんじゃないの。トナリの人が何をしているか知っている。その両親がどこにいるか知っている。その子供がどこに通学しているか知っている。同じように自分のことも知られている。だから、社会の常識に反するようなことはできない。他人の眼、後ろ指をさされたくない、親兄弟に迷惑がかかる…そんなシガラミの中で今まではムラ社会が成立していて、それが窮屈だという面ももちろんあるけれど、だからこそ、反社会的な行動のブレーキになっていたんだと思う。

噂話、井戸端会議、個人情報がざるのように流れ出しているムラ社会。それは、ムラの規律を維持するための必要悪だったのではないだろうか? 当然、ムラからはじき飛ばされる人たちもいる。彼らは、その傷を負い目にしながら、違うムラでひそかに生きていく。それもまたひとつのスタイルとして、括弧つきで許容される。

個人情報が保護され、個人情報が行き場を失うと、個人は徐々に個人としての個性や色を失っていく。やがて透明な存在となった個人は、他者との関わり方を学習できなくなるだろう。個人情報とは、本来、デジタル化された情報だけではない。なんか、情報という言葉をつけるだけで、すべてのことがデジタル化されるような幻想があるのではないか。

個人が自分であることを確認するには他者が必要だ。他者との関わりぬきには、僕は僕でありえない。当たり前のことなのに、他者との関わりがなくても生きていけるような社会に、いつのまにかなっている。鏡に顔を映すと、そこに映し出されるのは記号だけが描かれた「のっぺらぼう」。

他者との関わりができにくい社会だから、自分が何者であるのかわかりにくくなっている。その辺が、現代のいちばんの恐ろしさだと思う。

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