田起しとか、代掻きとか、田んぼをやっていなければ、まったく縁のなかった言葉たち。昨年は、遊休農地の開墾をして、クズという根っこに悩まされた。でも、このクズが実はあの葛湯のもとだという。農業というと大げさだけど、農作業をやるようになってから、けっこう役に立つ知識が増えたように思う。
コピーライターという職業柄、いろいろな知識がアタマの中を通り過ぎて、それがそのまま、知識としての蓄積になるか、というとそうでもなく…仕事が終わると、消えてしまう場合がほとんどだ。長野県の企業をクライアントにしていると、特にニッチな業種が多く、専門的な言葉が飛び交う。電子回路設計や半導体についての技術革新は、すごく大切なのに、一般消費者の目には触れることがない。携帯電話の寿命がいつの間にか長持ちするようになっていて、そのウラですごい技術革新が進行しているのだけれど、それは一般消費者には関係ない。「長持ち」という成果の恩恵を受けるのみ。
僕ら広告に携わる人間は、いわゆる専門用語というものを、取材のたびにひとつずつ覚えていくことになる。ただ、やはり残念なことに、そのような知識は、僕個人が「今日生きていく」ことの役には立たない。僕が生きるために「稼ぐ」ための役には立っているのだが…。
農作業とか、山菜や、自然についての知識は、直接的に、生きることに密接に関わってくる。知識というよりは、それは知恵というべきなのだろう。先人の知恵。地球があって、そこに人間が生きて、食糧を食べていく限り、必要とされるであろう根源的な知恵。
仕事では、知識を相手にするが、私生活では、知恵を相手にしたい。
明日、代掻きの作業を控えて、今日も、仕事に励む僕はそう思うのであった。
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