僕が子供の頃は、飼い主のいない犬がまだ街をうろちょろしていた。
都心の駅近くには、傷痍軍人や物乞いがいた。
僕はよっちゃんと呼ばれていたのだが、同じ町内には、不良のよっちゃんと馬鹿のよっちゃんと、三人のよっちゃんがいた。
夏の縁日には、神社に必ず見せ物小屋がきて、鶏を食らう蛇女や乳が四つある牛女や得体の知れない畸形が登場するという看板がかかった。
一度だけ、そういう小屋の中に入ったのだが、その女性のあられもない姿を直視できず、すぐに出てしまった。
便所はくみ取り式があたりまえで、学校では、回虫検査があり、それにひっかかる友達もいた。
東京オリンピックの開催された昭和39年前後の東京は、まだまだ、雑然と埃っぽい、そんな状態だったのだ。
日常生活のなかに、ケガレがあたりまえに存在していて、それは、心がざわざわする感覚はあるものの、身近であり、あえて拒絶しようという思いはまったくなかった。
そういうものだった。
ある年を境にして東京杉並区の夏の夜空から、天の川が消えた。
星を見るのが好きだったよっちゃんには、そのときの残念な記憶が残っている。
急速に、土の道路がアスファルトに舗装され、かくれんぼした雑木林がなくなり、草野球した野原がなくなり、麦畑が消えていった。
ふと気づくと、トイレは水洗となり、ウォッシュレットとなり、自動的に蓋がおじぎする便器まであらわれた。
街はとってもキレイになり、女性は化粧がとっても上手になり、奇妙な人間はこの世からまったく姿を消したように思える。
表面的には、すごく衛生的になった。
でも、ほんとうに、そうなのか。
この現実をぺろりと引きはがしてみたい誘惑にかられる。
人間が人間であるためには、雑菌のような得体の知れない存在が必要なのではないか。
ケガレに向き合い、つきあう術を学ぶことが大人になるということではないのか。
それを無理矢理に白い壁に押し込めてしまうと、何が起こるか。
雑菌に対する免疫力が低下した人間は、衛生に極度に敏感になり、非衛生なものを排除しようとする。
そのとき、何が起こるか。
キレイでないモノはキタナイという短絡的な発想からは何も生まれない。
キタナイのなかに、美しさや世の役に立つモノがいっぱいある。
ほんとうは、みんなが知っているはずなのだ。
タイを旅したときに感じた、人が生きている生命のちから。
いまのニッポンは、キレイと引き換えに、このちからを闇に封じ込めたような気がする。
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