不器用なひと、待ってます

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ひとづきあいにおいて、不器用なひとがとっても増えているような気がします。菅野美穂主演のテレビドラマ「曲げられない女」を見ていて、なるほどなぁ、と。ドラマですから、かなり誇張されたキャラクターとして融通の利かない主人公となっていますが、大なり小なり、このような性格的に硬い人が多くなっているのではないでしょうか。先日の放映では、主人公の母親があっけなく亡くなってしまうのですが、この母は、こんな娘にしてしまったのは自分の教育が悪かったからだと、教育者でありながら実子への教育の至らなさを懺悔します。

不器用な生き方というのは、ひとつのことにこだわって、ほかのことがおろそかになってしまうこと。たとえば、勉強はよくできるのに、他人と雑談が交わせない。かつて愛した女性を忘れられず、いま本気で誰かを愛せない。周囲のみんなと意識の流れが沿わない、流されない。社会との折り合いがうまくつけられない。そんなコミュニケーション下手なひとに、不器用な生き方という烙印が押されます。

しかし、不器用というのは、そのベクトルの方向性によっては、賞賛に値するものになります。政界の巨悪を暴くジャーナリストや大企業と戦う社会派弁護士なんか、社会との妥協を拒絶して、なおかつ立ち向かう姿は、人間性の深くにある良心に訴えかけ、誰もが目の覚める思いをします。彼らはコミュニケーションのおそらく達人です。曲げない信念がひとの共感を呼び、その「不器用」が美しい輝きを帯びます。

つまり、不器用にはふたつの種類があって、ひとつは自分にこだわる「閉じた不器用」。もうひとつは自分を捨てる「開かれた不器用」です。

日本的な情緒では、不器用といえば「美しい」と捉えられている節があります。たとえば高倉健が「不器用な男ですから…」なんて言えば、それはかっこいい。義のために、自分を捨てる。一人の女を思い続ける。ドラマや映画では、ふたつの不器用をミックスして、不器用をさらに美化しています。その「不器用」という言葉に、観客は自分を重ね合わせて、酔いしれることができます。自分のことを「器用な人間」であると思っているのは、おそらく少数派でしょう。また器用な人間から見ても、その不器用さに対しては好感を抱くでしょう。

「曲げられない女」は、閉じた不器用さで視聴者の共感を集め、開かれた不器用さで物語を展開していくものと思われます。弁護士の卵のドラマですからね。

ともあれ、テレビドラマを見ていろいろ考えさせられました。いま生きにくい時代ではありますが、だからこそ不器用なひとがもっともっと増えて欲しいなぁ。コミュニケーション下手な不器用ではなく、開かれた不器用さんがもっと増えてくれば、少しずつでも変わっていくんだけどなぁ。

不器用という言葉を、ほかのことがおろそかになってもOKだよ、という免罪符のように使ってはいかんよな、オレ。

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