つい最近、30代の人と話していて、インターネットの魅力について「何が起きるかわからないから、おもしろい」みたいなことを言っていた。
これ、いちばんシンプルな驚きを核にしていて、僕にとって、それは失われた感覚であり、ちょっと懐かしく思えた。
僕は、インターネットが普及する前から時代の流れとともにネットを見てきて、やや冷静に俯瞰気味にとらえている世代だ。
パソコン通信、草の根BBS、ニフティサーブを経て、インターネット黎明期をリアルに体験してきて、これまでに、いろいろな現象が起きてきた。
その都度、熱狂したときもあり、燃え尽き症候群というのを発病(?)したことも告白しておこう。
けれど、ネットは本質的な部分ではあまり変わっていないように思う。
僕が、パソコン通信と初めて出会ったときの直感。
それは、ネットワークとは、個人の意識を無限に拡大する装置である、というもの。
パソコンがスタンドアロンからネットワーク端末となり、地域BBSから世界規模のWWWが構築されるようになり、それを解説するために、世界各国のプロバイダを結ぶ世界地図というものが、一時期、パソコン雑誌に毎月のように掲載された。
網の目のように、張り巡らされたネットワーク図は、僕には、人間の大脳を描いたイラストとダブって見えた。
大脳皮質と地球、シナプスとネットワーク。
それ自体は装置だから、善悪の彼岸に位置するものだ。
プラスの方向に働けば、世界平和はわりと早く実現するのではないか。
しかし、マイナスの方向に働けば、世界の破滅も思いのほか早く訪れるのではないか。
むかしC.G.ユングという心理学者がいて、僕は大学時代にこの人の集合的無意識という概念に衝撃を受け、はまってしまった。
さらにライアル・ワトソンという人が「生命潮流」という本の中で書いた百匹目の猿現象に共感を覚えた。
当時は、ユングのシンクロニシティとの関連から、混沌としたこの人間世界を紐解くひとつの鍵が発見されたと興奮したものだ。
ネットワークは、集合的無意識を顕在化させ、人類の意識を次のレベルに進ませる役割があるのではないか。
そう、ネットワークとは、人間の脳であり、その拡張装置である。
この暗喩が、いまも気に入ってる。
しかし、現代社会では、怖いことに主導権が「人」から離れてしまう場合がある。
ネットワークの混沌が、今度は個人にも混沌たる意識としてフィードバックされてしまうことがある。
いじめ闇サイト、秋葉原事件…ネットワークが社会としての存在感を増大させ、人間に逆襲を加えてくる。
ネットでは、何が起きるかわからない。それを「おもしろい」と思える感性は大切だが、それよりも「おもしろさ」の中から、「たいせつさ」をどうやって探すかというあたりが、50代以降の人たちのこれからの大切な仕事になりそうな予感がある。
あいまいな言い方だけど、そんなことを思う梅雨どきではある。
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