Perfect Days を観たよ

映画の話
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長野の小さな映画館で1回、湘南のシネコンで1回。Perfect Daysは2回も観てしまった、それだけ愛おしい映画だった。

淡々と流れる日常のシーン、毎朝ホウキの音でめざめ、髭をそり、植木にスプレーで水をやり、外で缶コーヒーを買い、軽ワゴンに乗り込み、カセットを聴きながら仕事にでかける。それらの所作の全てに神経が行き届いている。仕事のトイレ掃除も一寸の無駄なく丁寧に行われ、修行僧のルーティンのように見える。仕事帰り、いっぱい飲み屋、就寝前の読書タイムなど、単調ではあるけれど自己充足している完璧な日々が描かれる。

だが、美しいさざ波のような日常に時折、小さな波や大きな波が訪れる。他者との一歩踏み込んだ交わりがそうした波を起こし、日常をかき乱すのである。でも、主人公ヒラヤマの姿勢は一貫して、誠実であり、多少感情のゆらぎを覚えても、誠実の範囲を踏み外すことはない。だから、大きなドラマチックな展開は起こらない。ヒラヤマはあくまでも寡黙であり、ふとした拍子に哲学的な禅問答的な言葉をぼそりと呟くのである。凡百の映画のように饒舌ではない。凡百のドラマ性に依存していないから、淡々とした映像になるけれど、また、その映像の構図が素晴らしく、まるで動く絵画を観ているようで飽きさせない。

現代は、ちょっと前の勝ち組負け組で代表されるように経済性優先の社会である。スマホで情報が氾濫している時代である。ヒラヤマの人生にどのような紆余曲折があったのか明らかにされないが、老年にさしかかった男性のアパート住まい。一歩間違えれば、ホームレスになるが、トイレ掃除という仕事でかろうじて社会とつながっている。古本屋の文庫本を読み、古びたカセットテープを聴き、新しい情報を積極的に入れようとしない。ここでは時間が止まっている。しかし、社会に対して迷惑をかけることなく、経済的には自立している。ノスタルジックを単に称揚している映画でもない。ヒラヤマにやってくる大波小波は、時代を映し出していて、まさしく現代そのものだ。ひと昔前の日本人的な心性を持つヒラヤマの立ち位置が明確になればなるほど、ぎくしゃくした現代人との距離感が浮き彫りになる。いまの「生きる」は、ほんとうに「生きる」を「やってる」のだろうか。自分に嘘をついていないだろうか。そんなことを押し付けがましくなく、無言で問いかけてくる。急ぎ足で過ぎようとする我々の足をふと立ち止まらせてくれる。

こういう映画を、ドイツ人監督がつくった。映画そのものの価値とは関係ない蛇足なことだが、盆栽や茶道華道など日本の伝統文化を継承しようという外国人が増えている傾向と、これは無縁ではないように思える。自分自身、高度成長期のモノがあふれだした時代に生まれた世代だから、かつての日本人が持っていた精神性を持っているとは言い難い。都会の暮らし、核家族の走りであり、大家族の良さも知らない。大量消費、使い捨て、バブルも真っ只中に体験した。自己弁解になるが、良きにつけ悪しきにつけ時代に左右されるのはやむを得ないだろう。

だが、人間としての「生きる」核心にふれたときは、時代性を超えて、日本も海外も関係なくなるのだ。ヴィム・ヴェンダーズ監督は、小津安二郎監督を通して日本を知って、そしてその作品の表面的なテーマではなく、そこに生きる精神性に感動したのだと思う。さらに共感さえしたのだろう。

自分を振り返れば、そこには、まだ至ってはいない。時代の現実という幻想に、まだまだ囚われているのを感じる。そういうことを、あらためて再確認できた。アカデミー賞をとれなかったのは残念ではあるけれど、この映画は自分にとっては最高の映画だった。

 

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