三浦和義さんのことが連日ニュースでとりあげられている。いわゆるロス疑惑、疑惑の銃弾と呼ばれている報道の続きである。
この報道そのものは、1984年週刊文春によって火がつけられ、各局のワイドショーを賑わし、三浦和義は時の有名人となった。いまから24年も前の話だから、現在20代の人にとっては未知の事件。なぜ、こんなにニュースで大きく取り上げられているのか不思議に思っているのではなかろうか。テレビでは、それほど詳しく説明されないし、説明されたとしてもあの当時の雰囲気を知らなければ、この報道の加熱ぶりは理解できないだろう。
この事件の真相について、ここで言及するつもりはない。
ただ、なぜ、いまも尾を引き続けるほど、マスコミが三浦氏を追いかけたのか。通常なら、ある時点で司法にゆだねるべきところを、あれほど執拗に追いかけたのは、なぜか。それは、健全な報道のありかたとは違うのではないか。視点を変えれば、この現象を引き起こした犯人は、間違いなくマスコミである。
ニュースから流れる映像、自己弁護する三浦氏を見た当時の視聴者は「この人は、なんだかウソっぽい」と感じた。正直に言おう。僕も、ベッドで横たわって妻の死について涙ながらに話す三浦氏の姿が、どうも胡散臭く感じた。でも、それは大衆の自分勝手な印象に過ぎない。通常なら、数回程度の露出で、あとは司法に判断を委ねるのだ。
マスコミは、この事件そのものというより三浦氏個人にスター性を嗅ぎ取った。いい意味ではなく、悪役としてのスター性だ。クールなマスクや颯爽とした長身のスタイル、サングラスをかけた若き実業家の三浦氏には、その性急にまくしたてるマシンガン・トークや激しすぎる感情の起伏があまりにも似合わない。その落差が、悪役ヒールとしての魅力に拍車をかける。視聴者も、その魅力に惹かれる。
だからといって、一個人である三浦氏をマスコミが追い回していい理由にはならない。社会的な説明責任を持つ公人とか、スターではないんだから。でも、もはやスタークラス。それをつくったのがマスコミ。この循環は、けっして健全ではないと思うのだ。
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