あるひとが自分のことを悲劇の主人公に見立て、ほかのひとを非難している。そういうひとは自分に非があるなんてことは思いも寄らない。自己チューの最大の欠点は自分の非にまったく気づかず、もし気づいたとしても、それを認められないことだ。
プラス思考が持て囃された時代がけっこう長く続いたような気がする。今でも、自己啓発セミナーは人気があるし、成功を手に入れ、勝ち組になりたいひとは多いだろう。
個人的な悲劇の主人公か、ビジネス戦線の英雄か、その舞台は異なっていても、自分を自分以外のものに高めたり、低めたり、そういう幻想を抱くという、その根っこにある性向は似ている。
ふと我に帰れば、ひとの醜い部分には気づくけど、症状の違いはあるにせよ、自分だって十分に自己チューな存在である。
もし今、少しでも寂しさや哀しみ、奢りや高ぶりを心に感じたら、それは自己チューに起因していると疑ったほうがいい。
仏教で言うところの平常心。おのれを知ること。頭ではわかっていても、心では理解できていない。それでもめげずに遠い道のりを歩くのが生きるということなのかもしれないなぁ。
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