なにかひとつのことに夢中になってしまうと、それ以外のことが眼に入らなくなる。たとえば、通勤の最中に、道路の側溝に人が挟まって死んでいても、それはまったく眼に入らず、無関心に通り過ぎてしまう。彼の頭の中のいちばんの関心事は、会社に遅刻してはいけない、というその一事なのだ。通勤の最中に知っている人に会う確率が極めて低い都会では特にその傾向が顕著だ。おそらく自分という存在は自宅から会社まで一本の透明なカプセルに入ったまま運ばれているのだ。自分の足で歩くということさえも、無意識な状態ではないのか。おい、お前はゾンビか?
オウム事件の際、地下鉄の職員が被害者を運び出しているのに、その傍らを何食わぬ顔でサラリーマンが通り過ぎていた。この光景は、あまりにも落差が激しいのだが、そこまでの落差ではなくても、我々は身近にこのようなことに近い擬似体験をしているはずだ。
ある点を想定する。その点といまの点を結ぶ。それが線になって、その線をなぞって動いていく。自分の線、他人の線、膨大な線がある。それらを何度もなぞって動いていくのが生きていくことなのだろう。まっすぐな線が最短距離であり、それは、もっとも効率的な動き方だが、そんなにまっすぐな動き方ができるわけがない。そこから、考え始めるのが大切なように思う。人間は効率を第一義にして生きるようにはつくられていない。横に折れたり、戻ったり、そんなぎざぎざを刻むことをおおらかに許容すること。それが、いまは大切だ。どこかで、だれかが、「まっすぐが良い」と勘違いしはじめて、それが、ずっと長く続いているような気がするんだな。
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