わかりやすい、わかりにくい

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一昔前の前衛アートは、考え方が先走っていて、ううむ、とうなってしまうことが多く、またそのことを狙っていたのだと言われても、なんだかな~とい う世界でした。

現代アートは、それから、どんどん「わかりやすい表現」へ走ってきているような気がします。

頭で理解するのではなく、感覚で理解するという 方向。

あ、これって、わかる、わかる。そんな空気を読んでいる表現です。

僕は、広告づくりという商売柄、表現は、わかりやすいものを心がけています。

マスメディアの広告コピーを書くときは、小学生が読んでも、七十歳のおじいちゃんが読んでも、わかりやすく書くことが求められます。

まぁ、一般論としては、それは正しいと思います。

伝える対象が細分化され、それぞれに言語文化が異なってきたりすると、ここの人たちに伝わる表現、ということで、いずれにしろ、相手に伝わりやすい表現をめざしています。

広告の前提には「わかりにくい」があって、それをどのように「わかりやすく」伝えていこうか。

そこに情熱と知恵を傾けているわけです。

ここでは、あたりまえだけど、「わかりにくい」存在は、善でも悪でもありません。

コミュニケーションというのは、誰かに何かを伝え合うということ。

おたがい、わかりやすく伝えるための努力が、その距離を縮めてゆきます。

あいつは、何を考えているかわからない。

そういう、わかりにくい相手に対しては、いろいろな石を投げて、その反応から気持ちを探ってゆきます。

つまり、「わかりやすい」と「わかりにくい」には、区別はあっても、本来、差別はありません。

わかりやすい=正義ではない。わかりにくいことは、まだ理解されていないだけであって、でも、むしろ、その部分に真実が隠されていることだってあるかも知れません。

最近、ちょっと感じるのは、時代がシンプルな「わかりやすさ」を追い求め、それが正しいことにつながっていくような傾向です。

これは歓迎できないなぁ。

こどものいじめも、なんだか、「わかりにくい」を排除しようとする大人社会の反映のように思えます。

この文章そのものが奥歯にものがはさまった「わかりにくい」感じになってしまいました。

ま、そういうこともあるということで、人生は広告じゃないんだから、ということで…。

 

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