1952年の「生きる」が訴えかけていること  

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黒澤明の「生きる」を観た。志村喬がブランコにゆれて、「いのちみじかし~こいせよおとめ」と唄うシーンはあまりにも有名で、いつか観よう観ようと思いながら観そびれていた作品だった。

ミイラというあだ名の市役所の課長が胃がんを知り、余命をどのように生きたかという物語。観ていて、これは凄いなと思えるシーンがいくつもあって、1952年の作品なのに、古さを感じさせなかった。放蕩したことがない主人公に、いろいろ夜の歓楽を教えるシーン。ハリウッド映画で観た覚えがあるような、もちろん黒澤が真似されたのだが、そのようなハレの演出がお見事。そして特に、驚いたのが、「まだ、やればできることがある」と主人公が一念発起したシーンの次の場面転換。唐突に、主人公のお通夜、ハレに対するケのシーンになるところ。やられた、と思った。観客の心の動きをしっかり読み取って、それを見事に気持ちよく裏切って、映像をつなげていく。映画でなければできない。映画だからできること。その表現に対する執念を感じた。

スピルバーグやルーカスからリスペクトされた監督だから、もう、国際的にも評価されて、手法的には、いろいろなことが言い尽くされているんだと思う。

逆に、日本の歴史のなかで暮らし、生きているわれわれ目線から、もう一度、この映像を見直してみると文化的な違いが面白い。僕は1957年まれだから、この時代の感覚はほんのちょっと齧っている。着物姿のおばさんがたくさんいて、男も寝るときは着物だった。そうそう、これは覚えている。たった50年間で、普段着の着物はどこに行ったのか。うちの親父は死ぬ間際まで帽子が好きだったけど、この時代、男は帽子をかぶるのがオシャレではなく一般的な身だしなみだった。今、公園では母子連れの子供しかいないけど、昔は子供たちのはしゃぐ場が公園だった。公園をつくることの意義、重さがあった。役所に30年間も勤続してると、お手伝いさんを雇って、こんなに立派な暮らしができたんだ。今は、お手伝いさんなんて、無理だろうな。

表層的には、いろいろ変化はあるけれど、人間の気持ちの本質にはあまり変化がない。現代はシステムが複雑化されているだけに、よけい見えにくくはなっているけど、お役所のシステムは根本的には変わっていない。その体制に対する怒り、その体制をブレイクスルーできるのは個人の情熱だけであるけれど、そういう個人はなかなか出てこない。つぶされる。社会に対する本質的ないらだち、正義への渇望。そういうものが表現の源泉にあるように感じる。いま、僕たちは、どのようなブレイクスルーをイメージできるのだろうか?

世界には世直しが必要なんだ。By小田実

戦争はもちろん学生運動も風化される中で、いま、何が、ほんとうに必要とされているのか。日本沈没は、目前に迫っているように感じるのは僕だけではあるまい。

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