阿久悠と悪友の日々

時事・世相
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 作詞家、阿久悠が8月1日に亡くなった。合掌。その訃報に接して、ひとりの友人の顔がすぐに思い浮かんだ。

僕は大学を出てから、半年間、アルバイトをしながら、 コピーライターの学校に通った。そのバイト先で知り合った男が、偶然、コピーライター志望で同じ学校に通っていた。

彼は、作詞家に憧れていて、その憧れの人物として阿久悠という名前をあげた。阿久悠はもともとコピーライターであることも、僕に教えてくれた。

阿久悠という作詞家は、僕の大学時代にその絶頂期を迎えていた。ジュリーこと沢田研二やピンクレディの一連のヒット曲、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」など、歌番組のテロップの作詞家欄に阿久悠の名前が出ない日はなかった。いまから30年前、1977年のオリコンのヒットチャート100位までに阿久悠の作詞した楽曲が17曲ランクインしたという記録もある。

僕は、当時、阿久悠にそれほど深い感銘を受けなかった。POPSから演歌まで幅広いジャンルを手がけて、器用な作詞家だなというくらいの印象。そもそも歌謡曲の歌詞をしっかりと聞いていなかったのだと思う。

バイト先で知り合った彼と僕は、性格はまったく違うのだが、なぜか意気投合して、何度も六本木や新宿で夜明けまで酒を飲んだ。いま思えば、就職先が決まっていない二人のモラトリアムな青春の日々だった。ある日、カラオケが置いてあるスナックで、彼の歌を初めて聞いた。因幡 晃という歌手の「わかってください」という歌だった。とても上手だった。僕は、歌が苦手でコンプレックスがあり、歌がうまい人は無条件に尊敬できるのだ。

そして歌詞のワンフレーズをひとつずつ噛み締めるように歌う彼の姿を見て、初めて彼の阿久悠に対する思いがわかったような気がした。そのときは阿久悠の歌ではなかったのだが、彼は歌詞としっかり向き合っていた。阿久悠の素晴らしさを、きっと、歌を歌う中で、実感してきたのだと思う。それは、歌が苦手な僕の理解が、到底及ばない世界だ。

その後、彼は広告代理店に入った。僕は広告代理店や制作会社を経て、いまは地方都市でコピーライターをやっている。僕が東京へ出かけたとき、いつでも声をかければ気軽に、一杯、つきあってくれる。彼とは信頼できる友人として、いまだに交友関係が続いている。

僕にとっての阿久悠は、だから友人との青春の思い出に深く重なっている。もちろん、その時代のバックには、いつも阿久悠の歌が流れていた。うれしい符合だが、阿久悠というペンネームの由来は「悪友」だそうだ。

いまは、おたがいに50歳を超えた悪友だが、 人生の機微をあのときよりは多くを知っただろう。人は、同じではない。人は、変われる。大きくなれる。僕も、ようやく、すこし歌を歌えるようになった。今度は、彼に阿久悠の歌を聞かせてやろう、と秘かに企んでいるのだ。

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