10.初めての飯綱山 1998

朝、犬の散歩をしていると目の前に、飯綱 山が見える。

標高1917m、なだらかな傾斜の 裾が広がり、我が家はそ

の裾野の高原に建っ ている。ここは標高1050mだから、

まさしく 目前に迫っているのである。3月に引越して、 ま

だ半年も経っていないが、これからはこの 飯綱山の四季

の移ろいを見ながら暮らしてい くことになる。向こう三件

に引越 しの挨拶を したように、このお山にも、新参者とし

ての 挨 拶をしておかなくては……そんなことを思 いなが

らも、つい に登る機会をつくれなかっ た。

きっかけを掴めなかったのは、不調の仕事のせいもある。

将来を見据えたビジネスを興 したつもりで、気を張って

がんばってきたのだが、最近は何をやっても、よろしくない。

自信を持って臨んだ競合プレゼンテーション に立て続けに

負けた。何とかして活路を開か なければ……という焦りの

気分に追い詰めら れていった。足元が崩れ、先が見えな

い。時 代のせいにはしたくない。すべての責任は自分にあ

る。それは分かっている。

ある日、商売にはつながらないけど、気になる人に会おう

と思った。組織に所属しなが ら、能力の爪を研いでいる人、

フリーライタ ーでいながら、ボランティアをしている人、 経営

者でいながら、アクティブに脳天気な人、 いろいろな人に会

って雑談を交わした。教育のこと、宗教のこと、福祉のこと、

経営のこ と、文学のこと、一銭にもならない話しをしながら、

その人たちの生きているスタンスに あらためて触れて、じ

ぶんは肩に力が入りす ぎていると思い知った。時速140キ

ロの豪 速球を投げる必要はない。それが分かったよ うな

気がした。

そして飯綱山に登ろうと思っ た。

久しぶりに晴れ渡った日曜日。絶好のファ ミリー登山日和

である。が、女房の体調が思 わしくない。一週間ほど前に、

階段から足を 踏み外し、その時に打った腰の痛みがまだ

完 治していないのである。大丈夫だろうか。 「無理しなくて

留守番してていいよ」と言うと、 彼女は「大丈夫、いっしょに

行く」と言う。 全員7時に起きて、山登りの支度を整える。

山登りとは言っても、幼稚園の恒例行事にもなっているほど

の軽い登山だ。女房と私 は白いコンバースを履いて、ジー

ンズにディ パックという装い。娘と息子もジョギングシ ュー

ズに、あとは普段と同じ格好。私は、釣 りのときに欠かさな

いコーヒーの道具一式を 入れた。いつもは川のそばだが、

今回は山の 上で飲もうと心に決めていた。そして、おに ぎ

りを詰め込んで準備完了。「一の鳥居」と いう登山道入口

までクルマで10分もかからな い。

登り始めたのは午前9時。人から聞いた話 しでは、頂上ま

で約2時間だから、早めの昼 食をとり、ゆっくり休んでから

下山すれば、 遅くとも午後3時には家に戻っているはず。

ちょろい、ちょろい、何しろ幼稚園児が登れる山だからね。

なめていた、ちょろいハイキングだと思っ ていた。しかし、

これが、なかなか、あなどれない、あたふた、息の切れる距

離を延々と どこまでも続く坂道を歩くのであった。よく 考え

てみれば、私と女房は、山登りなんて、 20年以上も遠ざか

っている。小学校の林間学校、中学校の修学旅行、高校の

徒競走以来、 こんなに長い距離を歩いたことがない。渓流

釣りでは多少歩くが、それでも、川辺に立っ ている時間の

ほうが圧倒的に長い。  ふうふう言いながら、中間ポイント

に到着 したのは、歩き始めて2時間近く経ってから である。

子供たちは、まったく息切れしていない。平然としている。

さすがに田舎の山育 ちである。腰の痛みが残っている女房

は、グ ロッキー状態。冗談とまじめの入り交じった顔で、もう

引き返したい、と言い出す始末。 ここで私は、予定を変更し

て、コーヒーブレイク。山の湧き水を使って、おいしいコーヒ

ーを飲もうではないか。女房もコーヒーが大好きである。

パーコレータのポコッポコ ッという音を聞きながら、しかし、

これでや っと中間地点かぁ、このペースで登ると頂上 まで

あと2時間だぁ、下山のときは真っ暗に なってるかも知れん、

熊に出会うかも知れん、 と前途多難であることを想像すると、

ゆった りした気分にはなれなかった。

しかし、山というのは、おもしろいものだ。 休んでからの道

のりのほうが傾斜がキツくな り、岩も多かったのだが、頂上

までは意外と 快調に登ることができた。のんびりしたリズム

を掴んだのか、澄んでいく空気に励まされ たのか、頂上が

見えてからの歩行は今までの 疲れが吹っ飛んでいた。ふし

ぎ、である。

最初の頂上近くで、偶然に、仕事関係の知 り合いに遭遇

した。こんな天界にまで下界の 仕事を引きづりたくないのは

人情。でも、その人は信頼できる爽やかな人柄だったので、

私のほうから声をかけた。昼飯をいっしょに 食べながら雑

談。

「山はいいよ、私はちょっ と体調を崩していたのでリハビリ

を兼ねて来 てるんだ」

彼の差し出してくれたインスタン トコーヒーをご馳走になる。

それから彼は下 山、我々ファミリーは尾根伝いに10分ほど

歩き、ほんとうの1917m、頂点へと向かった。

雲が真横に見える。空が青い。本物の空の色はこんなに

も青いのだ。風が吹いてきた。 気持ちいいね。なーんも考

えずに、深呼吸をする。それだけで満たされてゆくんだなぁ。

下界を見ると、我が家は木立に囲まれていて 見えないが、

場所は確認できた。長野市街地のほうはガスっていてまっ

たく見えない。

大きな岩に座って、煙草を一服。けっこう ノンビリさせてい

ただきました。ありがとう。 ここで、お父さんは家族のみんな

に宣言する。

「飯綱登山を菊池家の夏の恒例行事とする!」

「えっ、うそぉ、やだぁ」「まじかよ」と子 供たち。気がかりだっ

た女房の腰の具合も良 くなっているようで「賛成」。ふと、

まわり を見ると、先程までたくさんいたパーティはほとんど

姿を消して、もう1組しか残ってい ない。午後2時半。そろそ

ろ下山しよう。

エイエイオーとかけ声をかけて、いざ下山。 子供たちは転

げるように走りながら下ってい き、途中で私と女房が追いつ

くのを待って、 また転げていく。そんなリズムで下っていき、

登りのときに休憩したポイントでまたもコー ヒーブレイク。今

度は心に余裕ができているので、湧水で沸かしたコーヒー

が無茶苦茶お いしい。

そんなこんなで登山口に戻ったのが午後5 時。一日がか

りのヘビーなライト・トレッキ ングは無事終了した。

今年の夏は例年になく雨が多かった。夏があったのか、

なかったのか、あいまいなまま 過ぎていった。それでも、高

原の風はきちんと涼しくなり、礼節を守って夏の終わりを告

げようとしている。

翌朝、犬の散歩をしながら、 飯綱山を見上げると、私は私た

ちの登った頂上の稜線に今までにない親近感を覚えた。

1998/08/26

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