コピーライターの先輩からポーンと戻され
た原稿用紙は、朱が入り血だらけになってい
た。ぼくの書いた文章は跡形もない。
じぶんのデスクに戻り、その遺体を破り捨
て、腹立たしく白い原稿用紙に向かう。
文章を書くことには、自信があったのだ。
学生時代にはオリジナル戯曲を書いた。劇団
のトップと喧嘩してからは小説を書き、ある
新人賞の最終選考に残った。
広告の文章書きなんて、ちょろいと思って
いた。やがて極度な自尊心は、極度な劣等感
に変わっていった。ぼくにはコピーライター
の才能がないんじゃないか。本気で転職を考
える。だが、ほかの職業が思い浮かばない。
そんなある日、先輩にこう言われた。
「コピーでいちばん大切なのは、何を言うか
っていう部分だ。どのように言うかは2の次。
そんな表現力は続けていれば誰でも身につく」
「誰でも、ですか」
「そう。語るべき何かを見つける理解力や洞
察力を磨くほうが難しい」
ふっと肩から力が抜けてしまった。ぼくが
今までに書いてきたのは、広告する商品をめ
ぐって展開するじぶんの妄想だ。商品を伝え
る文章ではなく、じぶんの未熟な自我を伝え
ようとするものだった。そうか、広告と文学
は、まったく違うんだ。
23歳のぼくは、そんな幼稚なステップか
らスタートして、半年後にようやくじぶんの
書いた広告が無添削で雑誌に掲載された。
そして今、40歳を前にして思う。
広告主の意向をそつなくとらえ、さらに喜
ばれる提案を加えて文章化する技術は、キャ
リアのおかげで、ある程度身につけた。
では、商品ではなく、人間に対する理解力
や洞察力は、どれだけ磨いてきたのだろう。
じぶんの中に語るべき何かがどれくらいあ
るのか。そして、それは、伝えるに足る価値
をはたして持っているのか。
じぶん自身を商品として見たとき、今まで
見えなかった何かが見えてくる。それと真摯
に向き合うこと。広告で培った視点を、じぶん
に向けるのも、少しくらいは意味がありそうだ。
「文学」と置き換えてもいい。
まったく関係がないと思ってきた広告と文学
の接点を感じて、ぼくはちょっと嬉しくなった。