カテゴリー : 時事・世相

やったね!なでしこJAPAN

女子ワールドカップ決勝戦。朝の3時半から、プリン体オフの缶ビールを片手に、テレビの前で待ち構えていました。釜本や杉山に憧れ、小学生の頃にサッカー少年だった自分は、いまJリーグに夢中になるほど熱狂的ではありませんが、けっこうサッカー好きです。この日は、あのメキシコ・オリンピックで銅メダル以来の快挙なのですから、これは同時代人として見逃すわけにはまいりません。
生中継の試合は、つねにアメリカに得点を先行されるカタチでしたが、冷や冷やすることなく不思議な安心感がありました。追いつくはず、きっと、点を奪い返す。ほとんど攻められっぱなしの展開でしたが、選手たちのめげない動きを見ていると、期待に応えてくれそうな予感がありました。延長戦最後の得点は、やるべき人がやったという感じで興奮は最高潮です。
2対2でPK戦にもつれ込み、最後の円陣の輪のなかで、佐々木監督の満面の笑顔。これを見て、勝利を確信しました。そして優勝、金メダル。澤選手のくしゃくしゃの顔がとっても輝いて美しく見えました。
澤選手のトリッキーなゴールも、GKの足に当たったファインセーブも、これは、運が良かったのではなく、なでしこたちが奇跡を引き寄せたのでしょう。あきらめないことが、なによりものチカラを持つのだと教えてくれました。ほんとうに、ひさしぶりに、日本にもたらされた、文句なしのグッドニュース。僕から見ても、娘のような、かわいい選手たち。ちっちゃな娘たちに、ありがとう、感謝です。

映画「玄牝(げんぴん)」を観てきました

長野相生座・ロキシーで、久しぶりに映画を観てきました。縁があって、まったく観ようとは思っていなかった映画を、まぁ、義理で観ることになりました。河瀬直美監督の「玄牝(げんぴん)」です。タイトルからして難しくアングラチック、玄人の女性が主人公なのかな?と、わけがわからない。しかも、この監督の映画は観たこともないし、カンヌでなんかの賞をとって、一時マスコミに騒がれていた程度の知識しかない。でも、まあ、映画館の座席で、期待もせずに、観たわけです。
内容は、自然分娩を標榜するある産科医院のドキュメンタリーです。妊婦たちは木造家屋に住み、薪割りをしたり、畑仕事をしたり、スクワットをしたり、そういう日常生活を送りながら、病院ではなく、日本家屋の畳のうえで出産します。妊婦たちの話、助産師の話、院長の話がぼそりぼそりと展開されていきます。出産のシーンもいくつか挿入され、それは生々しく、生命の輝きを見せて、感動的ですらあります。ただ、これは、女性の視点から捉えた美しさ、感動なのだろうな、という思いがどうしてもぬぐいきれず、映像の中に入り込んでいくことができませんでした。僕は古い男なのでしょうか? 終盤、院長の娘が出てきて、もう30歳前後だと思うけど、彼女が父親に毒を吐く「どうして他人ばっかりに気を遣って、じぶんたちに心を払わなかったのだ」というシーンはよく撮影させてくれたものだ、と感心しました。監督がそこまでの信頼関係を築いていたのだろう、と。「玄牝(げんぴん)」というタイトルの種明かしも、最後のほうで、テロップで流れます。老子の言葉からの引用なのですね。「谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。」 あ、そうか、谷神は女性器の暗喩なんだと理解するのに、少し時間がかかりました。
この映画は、自然分娩や吉村医院に対する無批判な賛歌ではなく、そこに生じている矛盾や葛藤も描かれています。ドキュメンタリーですから、ある程度、表層的なインタビューが続くわけで、その表面のみで判断されたくないという、監督の思い、思惑が、老子から取ってきたタイトルに現れています。自らの出生に眼を向けて。それを問い続けるためのひとつの切り口が、この素材となっただけのこと。それを、タイトルからくみ取って欲しいと願ったのでしょう。監督は、もし自分が妊娠したとしても、ここで出産することを選ばないような気がします。そういう、表現者としての、いい意味での、したたかさも感じました。

寒い5月、暖房を入れた

我が家は、標高1,000メートルの高原にあります。近くにはスキー場があります。冬は寒い。夏は涼しい。そんなロケーションなので、秋から冬、春先まで、暖房がかかせません。うちは灯油ボイラー式でお湯をパイプで循環させ、各室のパネルヒーターを暖めるシステムです。薪ストーブは憧れではあったものの、いろいろ調べていくと、薪の調達やら何やらでかなり時間がとられてしまうため、よほどマメな性格でないと維持していくのが大変。僕にはぜったい無理でしょ、と却下。いちばん楽ちんだからという理由でいまの暖房スタイルを選びました。例年であれば、5月下旬ともなれば、さすがにボイラーを使わないのですが、今年は、けっこう寒くって、まだボイラーの電気を入れてます。扱いは手軽なんですが、灯油代が重いです。
で、大震災以降、自分のライフスタイルを振り返ることが多くなりました。暖房についても、もし、ここで災害が襲ってきたらと思うと、どうもパネルヒーターの分が悪い。停電すれば、凍死しかねない。やはり薪ストーブにすべきだったかな、と。楽ちんで便利なことは、だいたい灯油と電気に依存しているんですね。手間暇かけて、薪をどこかから調達して、エンヤコラと割って、くべて、きちんと煙突掃除をして、そういうプリミティブなスタイルのほうが、災害には、当然ながら強い。
でも、もし、ボイラーの電気を自前の発電でまかなえれば、災害時だって、なんのその。楽ちんかつ災害に強い方法となるのではないでしょうか。
本音として、電気の恩恵ははかりしれないほど受けているので、電気のない暮らしには戻りたくない。農業の地産地消のように、電気もそのような方向に進んでいってほしい。理想は、食とエネルギーの自給自足です。まぁ、すぐには無理でしょうが、そこをめざしていきたい。あ、その前に、大都市への人口集中をどうにかしなければなりませんが…。

2011年度以降を生きていく覚悟

2011年もいよいよ4月になりました。日本では、新年度ということで、会社も学校も、新しい人を迎えます。4月は、1月以上に大きな変化を伴う月、別れと出会いがたくさんあって、それぞれの人生の節目となります。僕の息子は、消防士として採用式に臨みました。僕の娘の娘、孫は保育園の入園式を迎えました。それぞれ晴れがましい気分とともに、この大震災の年に新たな出発を祝うことになり、いろいろな意味で忘れられぬ一日となったことでしょう。これから日本は、どのようにこの危機的状況を打開していくのでしょうか。ビジョンもなく、不安なまま、一億総神経症のような時代を、僕たちは生きていかなければなりません。現代を生きるということは、今まで以上にひとりひとりの強い「覚悟」が大切になっているように思います。

そんなとき、昭和32年の防衛大学校第1回卒業式にて吉田茂が行った訓辞をTwitter上で知りました。これ、けっこう有名な訓辞のようですが、僕は初めて知って、ほぉ~と感心しました。

君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。
しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい。

平常時にこういう覚悟を求めた吉田茂は、たいした政治家だと思います。消防士や警察官とともに、ヒロイズムに陥りやすい職業であるからこそ、あえて、このような言葉を。
さて、いま、東日本大震災の現場で活動している自衛隊の皆さんを、日本中の人々が感謝と尊敬の念で見つめています。僕も、そう思います。でも、その感謝とともに、一日でも早く、自衛隊が元の日陰者の座に戻るように、幸せな日本が再び訪れるように。日本を救済する特効薬みたいなものは存在しません。ひとりひとりに、いい気づきがあれば…意識の津波に流されるのがいちばん怖い。その辺のところ、僕らもしっかりと「覚悟」を決めて、生きていかなければなぁ、と思いました。今回は、筋道があるようなないような、わけのわからないお話でした。思いの根っこはあるのですが、枝や葉っぱがまだ整理できていませんね、はい。

週刊誌の表紙から、編集者の本音が見えてくる

3月11日以降、ツイッターがひじょうに役に立つ情報源となりました。そのツイッターでも話題になった週刊誌の表紙について、僕なりの感想を書いてみようと思います。

最新号のアエラ表紙については、すでにTwitter上で批難が集中して、アエラはWEB上でも、謝罪めいた一文を掲載しています。それでも誰が見ても恐怖心が煽られるような表紙です。なぜ、ここまで、脅かす必要があるのか。脅かされた我々は、どういう心境になるのか。人を脅かそうというのは、その人を下に見ているとき、いわゆる「なめてる」ときです。そんな差別感なんて、読者は感じないよ、とでも思ったのでしょうか。そもそも編集は、読者の心理まで想像力を巡らしたのでしょうか。映画のポスターじゃないんだから、この表現はないでしょ。というか、映画の予告編をつくっているような感覚で、編集長はこの表紙にOKを出したのではないでしょうか。一般的には、このようなマイナスアプローチのレトリックは、本編を読ますためのフックとして機能します。そのレトリック手法だけに執着して、「効果的だから」と安易にOKを出したのではないか。その結果、一般的な事態ではないことを認識していない編集部の無神経さを露呈してしまいました。いくら謝罪をしようが、多くの人が編集部の一般人感覚を疑わざるをえなくなっていると思います。

TIMEの表紙は、被災者の悲しみを切り取った写真。ジャーナリズムは、厳密には、客観的な事実のみを伝えることはできません。そこに、何らかの思いが働き、それを伝えようとした瞬間に、すでに事実は主観的な「思い」によって脚色されています。事実を超えた真実を伝えるのだ、と多くのジャーナリストたちは語ります。この表紙は、読者目線のヒューマニズムという視点にたっており、アエラとの対局に位置しているように見えます。しかし、クリエイティブへの信頼、という意味では、同列に存在しているとも言えます。多くを語らずに、静かに、強く、感情に訴えかけてくる表現。そのメッセージがより共感を呼ぶ、という意味では、TIMEのほうが遙かに勝っていますが…。

週刊ポストの表紙は、赤ちゃんを救出している自衛隊員。「日本を信じよう」というタイトルとともに、復興への励ましを込めた表現となっています。まるでアエラの表紙をあざ笑うかのような「放射能汚染とデマ」という小見出しまで。多くのことを表紙で語り、それは、読者の知りたいという欲求に応えているように見えます。
僕としては、もっとも共感できた表紙です。悲惨な状況はテレビでたくさん報道されました。そのなかで、いま、これから、どうすべきか。立ち止まっていてはいけない。明日へ向かって、動きだそう、日本の底力を信じよう。そういうメッセージが込められているように思います。いつも見出しを表紙に出すスタイルですが、具体的なことを知りたい現時点では、この感じがいちばんしっくりときました。

週刊アスキーは、なんてシンプルな表紙でしょうか。上の三誌とは異なって、デジタル系の専門誌ですが、それでも、このシンプルさは「あれ」と思うほど大胆です。その理由は、いち早くWEB上に開示されました。
>>週刊アスキー読者の皆様へ
この文章中から下記に抜粋します。

まず、3月22日発売号の週刊アスキーの表紙ですが、いつもの週アスの表紙を心待ちにしていただいていた皆様には本当に申し訳なく思います。震災後に伝 えられる映像やネットの情報を見るにつけ、表紙に入れるべき文章もビジュアルも、正直、何も思いつきませんでした。そのため、今回のような表紙になってし まったことをお詫び致します。
でも、これが先週の、週刊アスキー編集部の偽らざる心境でした。

これ、いろいろな意味で素晴らしい。編集者としてはある意味、表現放棄ということで、まったく失格なんです。表紙を見ただけは、それほどの感慨はわかないでしょう。ところが、WEB上でのメッセージを読んでから、この表紙を見たとき、読者としての共感度はものすごく高くなります。いま、震災後の私たちは「なすすべもない」という無力感に多くの人がとらわれています。その切なさを表紙の表現放棄というカタチで表現(!)し、さらに編集部は、今後物流システムが安定するまでの間、誌面をPDFで無償提供すると宣言しています。いま、編集部として、できる支援をしっかりとやる。でも、生身の人間として、血や涙や、そんな感情の揺れを持っている。あなたと、同じなんだよ。それがこのWEB上の文章でストレートに伝わってきました。印刷物だけの力ではなく、WEBやSNSとの連動というスタイルによって、メッセージがどんどん広がって伝わっていくところも、現代的なコミュニケーションのあり方を感じます。

さて。僕個人のことですが、いま暮らしている長野市内は、被災地ではありません。でも、僕には、釜石に暮らす79歳のおばさんがいて、お世話になった彼女のことがとても心配でした。震災後すぐ、連絡がとれないという焦燥感と、じぶんには祈るしかできないという無力感に、数日間、沈んでいました。でも、おばさんの元気な声を電話で聞いてからは、僕も、がんばらなければ、という前向きな気持ちに切り替えることができました。そういう経過を経て、いまの僕があって、そうして各週刊誌の表紙を取り上げて、気ままに勝手な感想を述べてきました。震災を、どのように体験しているか、ひとりひとりによって、感想がまったく違ってくるのだと思います。ただ、こういう事態のときこそ、メディアは、ほんとうに、人の気持ちを斟酌できなければいけないんじゃないか、と。多くの人に影響を与えるメディアは、小さなひとりの人間に対して、深い洞察と共感を持って、そこからメッセージを発信すべきではないかと感じました。