カテゴリー : 広告論

広告業界はどこに向かっているのか?

 そもそも広告業界なるものの歴史は浅く、日本では、20世紀開幕の年である1901年(明治34年)が、あの世界一の広告代理店「電通」の創業年であり、おそらく100年とちょっとくらいだ。新聞広告の取次ぎ代理業務から始まったわけで、それから雑誌やテレビの普及に伴って、広告業界は産業としての裾野をどんどん広げていった。
 広告制作を専門にする、いわゆる制作プロダクションは、高度成長期以降の話だろう。それまでは、広告主が自分で考えたり、サントリーや資生堂のように宣伝部をつくって、モノやサービスを売るための広告づくりに励んできた。

 この50年間、広告業界をささえたビジネスモデルが、いま、地殻変動を起こしつつあり、あと5年間で激変するのではないか、というレポートをIBMが公表した。
 この“The End of Advertising as We Know It”というタイトルのレポート(Executive SummaryのPDF)は、もちろん英文だから、和訳と解説付きの下記記事を、まずはご覧ください。

◆激変する広告業界,今後5年間のシナリオは?

 インターネットによって、オープンで消費者主導のメディアが生まれ、従来のマスメディア中心の広告モデルが脅かされている。確かに、従来メディアだけでは、その広告効果が薄くなってきたと言えるだろう。ネット上では生活者の趣味や嗜好をより的確に捉えられるシステムが構築されつつあり、今までのメディアでは考えられなかったきめ細かなターゲッティングが可能なのだ。

 GoogleのAdsenseは、サイト内の文章を独自のアルゴリズムで分析して、それに適した広告を挿入する仕組み(このブログでも使用中)。さらに、サイト訪問者の嗜好にマッチした広告を自動的に出稿する仕組みも登場している。ようするに、インターネット広告は、つねに、いまアクセスしてくる「あなた」を狙い撃ちするのだ。

 クライアントにとっては、従来型のメディアがインプレッション(いわば発行部数)によって媒体価値が決められたのに対して、ネット型の広告は一歩踏み込んで、クリックしたらナンボとか、購入したらナンボとか、広告の効果によって対価を決められる仕組みがある。広告主は、消費者のアクションが欲しいわけだから、結果によって価格が決まる仕組みはありがたい。言葉を換えれば、それだけ広告予算と効果に対してシビアになっているのだ。

 大衆を狙うのではなく、より絞り込んだターゲットに向かって広告情報を発信する。

 これ自体は今に始まったことではない、広告の大原則だ。広告代理店は、さまざまなターゲットのメディアをあれこれ提案し、広告クリエイターは、ターゲットの心にヒットする表現をあれこれ工夫する。

 インターネットが広告メディアそのものにターゲッティング機能を付与したとしても、実際に消費者が購入のアクションを起こすかどうか。さまざまなクライアントが、このシステムを利用したとき、商品自体が成熟市場になったとき、その広告を差別化するものは、やはり、広告表現であるだろう。特に、ことばのチカラが重要だ。

 これからは消費者のアクションによってネット広告の媒体価格が変動するように、広告クリエイターの報酬もそのアクションと連動するようになれば、おもしろい。小説家が本の出版で印税をもらうように、コピーライターはユーザーのクリック数で報酬をもらう。20世紀型の広告モデルではない、21世紀型の広告収益モデルは広告クリエイターにも反映されるべきだと思うのだがいかがだろう?

広告クリエイターが生き残る処方箋

 つい先日、10月26日、デザイン界の若き旗手として有名なアートディレクターが長野市にやってきた。彼の名前は、水野 学。グッドデザインカンパニーというデザイン会社の代表である。

 講演会の場所は、僕の事務所から徒歩5分のTOiGOというビル。長野県デザイン振興協会による「信州ブランドフォーラム」のゲストとして水野氏が招かれたのだ。昨年は、外資系のブランディングデザイン会社であるランドーアソシエイツでデザインマネージャーをやっている家田 律氏がゲストであった。家田氏は、僕の27年来の友人。出会ったときから、弁の立つデザイナーであったが、話術にますます磨きをかけて、有意義でおもしろい講演をしてくれた。

 実は、今年の講演者、水野氏とも僕は知り合いだった。7年程前、東京のある大手スポーツファッション系企業の仕事で顔を合わせたことがある。いっしょに仕事はできなかったのだが、いろいろと縁があり、事務所に寄ってくださいと誘われながら、なかなか出かけることができず、今日に至った。出会った当時、水野氏は、まだ3人くらいで事務所をやっていたと思うが、デザイナーでありながら、「絵」よりも「言葉」にこだわっていた。このデザイナーは見込みがあるな、と彼より年長のコピーライターである僕は思った。後に、ADC賞をとったり、数多くのメディアで取り上げられ、こんなに活躍することになろうとは! 

 当日、彼の講演は、作品紹介だけではなく、自らのデザインに対する考え方や方法論にまで及び、そのやさしい語り口が印象に残るとともに、内容自体もおもしろかった。アートディレクターの仕事を、医者に例えたり、スタッフみんなで1時間にアイデアを1人50本ずつ出させたりとか、僕のコピーライティングの方法論と同じ部分もあり、共感できる内容であった。さらに感心したのは、200人以上の聴衆を前にして、肩の力を抜いて話ができるということ。35歳という年齢を考えると、なかなかのものだ。東京の第一線でナショナルクライアントを相手に、コミュニケーションの「医者」としてビジネスをしてきたその自信が、内からあふれている感じがした。話しの「間」の取り方も、うまい。「若い人にお説教するような内容だったから、先輩方も多くいらっしゃるのに申し訳なかった」と講演後の立ち話で頭をかいていたが、彼は年齢を問わず誰にでも好感を与えるキャラクターだ。人格も、この数年間で、きっと、人知れず磨いてきたのだろう。NHKのプロフェッショナルの現場、またはトップランナーに出演できる日も、きっと近いと思う。応援するよ、水野くん。

 さて。広告業界における成功事例とも言うべき、ランドーアソシエイツとグッドデザインカンパニー。かたや世界に拠点を持つ外資系、かたや10人程度のブティック系と組織としては大きく異なるが、このふたつの会社には共通点がある。
 それは、デザインを単なるビジュアル表現ではなく、戦略的なツールとして位置付け、コンサルタントとしての立場から、デザインビジネスを展開している点だ。ランドーの家田氏もgdcの水野氏も、だから、同じ多摩美術大学を出ていながら、言葉を大切にしている。人を説得するための話術を持っている。デザインを専門にしながら、「言葉」を大切にするということは、広告表現の本質であるコミュニケーションを大切にしているということだ。

 広告の仕事には、つねに広告主=クライアントがいる。広告クリエイターは、まずクライアントに向き合って要望を理解し、市場の状況を踏まえて課題を見つけ出し、その解決策を提示する。そう、最終的な成果物は異なるが、経営コンサルタントやマーケッターの仕事と類似しているのだ。
 だが、企業の業績アップという同じゴールを目差していながら、広告クリエイターは、どちらかと言えば「虚業」の人と思われてきた。広告というイメージ戦略は、その経済効果を数値に換算して評価するのが難しい。ゆえに、報酬の根拠があいまいになっている。あるクリエイターにポスターを頼むと100万円、違うクリエイターなら10万円。それに加えて、芸術家肌、職人肌の人間が多い業界であるため、独特の胡散臭さがつきまとってきた。

 これからの広告業界でクリエイターが生き残っていくためには、まず「言葉」を磨くべきだ、というのが僕の持論。実際に僕が出会ってきた、巨匠と呼ばれる広告デザイナーたちはみんな言葉に対する感性が優れていた。
 ようするに広告制作とは、生活者に「言葉」を伝える仕事なのだ。それ以上でも、それ以下でも、ない。デザインだって、言葉の「見える化」だ。その言葉が、生活者の心にしっかり届けば、ダイレクトな消費行動になったり、ブランドイメージが向上したり、良い結果をクライアントにもたらすだろう。さらに、その効果をしっかり数値化できるようになれば、「実業」としての地位も得られるに違いない。WEB制作というのは、このような文脈で捉えれば、表現と効果の関係性をもっと明確に数値化できる可能性を持っている。(広告効果を数値化する試みは、すでにいろいろ行われているけれど、厳密な意味で「表現」と「売上」の関係を立証するのはまだ難しい。)

 クリエイターたちがコンサルタントの役割を担い、その役割に対する認識が世の中に広がっていけば、広告業界の未来は明るいものになる。インチキな経営コンサルタントが淘汰されてきたように、クリエイターもどんどん淘汰されていけばいい、と思う。

 最後に、若きクリエイター志望の諸君へ。言葉を使うのが苦手だから、デザイナーを選んだ諸君よ。安心したまえ。コンサルタントを必要としない、圧倒的に多数のクライアントが、君たち若い広告クリエイターの手腕をデフレ価格で待っているのだから…(苦笑)。

広告業界からクリエイターが消滅する日

 たとえば一枚のポスターや一本のCFが時代の空気を切り取り、その時代のシンボルになりえた時代が確かにあった。

 1961年、サントリーが打ち出した「トリスを飲んでハワイへ行こう!」キャンペーンは、大ヒットとなり日本全国でトリスウィスキーが15億本売れたという。海外旅行が庶民にとって憧れの時代に、宝くじのような「夢」を与える広告だった。コピーを書いたのは、後に作家となる山口瞳。僕はリアルタイムでは4歳だから、キャンペーンそのものの記憶はないが、柳原良平のイラストと、渋い歌のCFはその後も長く続き、覚えている。うちの親父が毎晩飲んでいたのもサントリーだった。

 70年代は、学生運動がつぶされて、みんなのベクトルが宙ぶらりんになっていて、振り返ると、挫折感を味わい首をうなだれた男たちの前に、すっくと強い意思を持つ女性たちが立っていた。広告では流通業界が元気で、特にパルコのポスターやCFは女性の自立を促して、エネルギーにあふれていた。そのポップなビジュアル表現とコピーは、石岡瑛子のディレクション。「裸を見るな、裸になれ」や「モデルって顔だけじゃダメなんだ」とか。女性の時代をきちんと掬い取って、それをカッコよくビジュアル化する。アートディレクターやグラフィックデザイナーが脚光を浴びた。時代を動かすかのような、その感覚が絶賛された。

 時を同じくしてライフスタイルという言葉が市民権を持つようになり、生活提案型の広告がさまざまな分野に広がっていく…新たな生活提案によって、消費者の需要が喚起され、マーケットが拡大していく、どんどん拡大していき「モノ」が「しあわせ」と同じ価値観で語られる。

 80年代は、その延長にありながら、生活提案がもっと「個人」に絞られていったように思う。「おいしい生活」や「好きだから、あげる」は、個人の感覚に着目して時代を切り取った好例だろう。糸井重里、仲畑貴志が頭角をあらわして、今まで黒子だったコピーライターという職業を全国的に知らしめた。

 価値観の多様化という言葉とともに、個の嗜好性が尊重されつつも、ことモノを買うことになると、トレンドという歌い文句にみんなが踊らされた。地価が急激に上昇し、土地建物関連の成金が巷にあふれた。雑誌というメディアもいち早く反応し、さまざまな雑誌が発刊され、かたや潰れ、メディアが核分裂しはじめた。

 都会の真っ只中でバブルを経験しながら、何だかなぁ、という思いが僕にはあった。六本木で遊びながら、ゴルフ三昧をしながら、ちょっと待てよ。僕もふくめて、みんな狂ってるよ、おかしいんじゃないの? で、1990年、バブル崩壊の前夜、僕は東京に見切りをつけて信州へ脱出した。

 90年代は、「モノ」が売れない時代。「モノ」を買わない時代になった。地方都市に移り住んだ僕を待っていた仕事は、そのほとんどが「モノ」ではない広告だった。企業の会社案内や採用案内であったり、行政による観光関連の仕事が多かった。
 最初は、その報酬のギャップに驚いた。地方都市のコピーライターが広告の仕事だけで生きていくのは難しい。そういう現実があった。

 ともあれ、東京と地方を問わず、広告の世界は、バブル崩壊とともに、企業の広告費が削減され、元気がなくなった。追い討ちをかけるように、デザインの現場ではIT化が進展した。広告費が削減されても、デザイン現場が効率化されれば、利益は確保できるだろう、という甘い見込みのもとに、大小を問わず、マッキントッシュという名のコンピュータが導入された。 もっと安く、もっと早く、もっと上手く…IT化されたデザイン事務所は、コンピュータやプリンタのリース代を稼ぐという負荷もいっしょに手に入れることになる。作業が効率化されたら、その浮いた時間を、考える時間、創造的な思索に振り向けられるはずであった…はずであった、で、あった。

 デザイン現場のIT化は必然であり、僕はどちらかと言えば、それを煽動してきた立場にある。まだマッキントッシュに印刷品質の日本語フォントがなかった20年以上前から、この道具の可能性に着目し、デジタルデザインの最前線を個人的に取材してきた。実際にデザイン会社へのMac導入の責任者にもなった。(デザイン業界でMac=マックといえば、それはハンバーガーではなく、コンピュータのマッキントッシュ。)それだけに、道具に使われる使い方をしているデザイナーを見ると、それは当初の理想から大きくかけ離れており、ちょっと残念だ。

 世紀が変わり、2007年も後半に差し掛かろうという今、時代を切り取るような広告表現は生まれにくくなっている。バブル崩壊とともに数多くのデザイン会社が倒産し、自然淘汰がひと段落した時代。生き残っているデザイン会社はいずれもチカラのある会社だと思う。
 だが、大雑把な分析で恐縮だが、マクロな視点から見れば二極分化したように見える。ひとつはデザイン作業の無駄を排して合理化を徹底する方向性、もうひとつはデザイン表現にこだわりクオリティを追求する方向性。前者は、時代の要請に沿うものであり、そのマーケットも大きいからビジネスとしては人件費の問題さえクリアできれば成立する。しかし、後者は、そのクオリティと報酬のバランスが問題だ。クライアントがその価値を認めてくれるかどうか。クオリティを追求して生き残れる確率は、首都圏でも一握りだが、地方都市なら、なおさら厳しいものがある。

 広告黄金時代に青春を過ごし、夢を抱いて、広告業界に入った人々、デザイナー、コピーライター、カメラマンたち、いわゆる広告クリエイターは、いま、その職業に対して表現者としての自負とともに、大なり小なりの危機感がある。好きで選んだ職業ではあるけれど、慢性的なデフレ・スパイラルによって、収益モデルが破綻しはじめているのだ。当然ながら、現代の若者にも、この業界が魅力的ではなくなっている。

 広告制作の現場は、いま、大きな転機を迎えているのだろう。従来のビジネスモデルに依存していては、もはや発展が見込めない。まず、広告そのものの意味を根本から問い直し、そして現状の企業をめぐる環境の変化に、広告戦略はどこまで対応できるのか。生活者の消費行動をどこまで洞察できるのか。そのとき、メディアは?手法は?表現は?

 広告業界から、クリエイターが消滅する前に、何らかの手を打たねばなりません。そのうち、気がつけばクリエイターはすべて60歳以上、日本の広告会社のトップはすべて外国人だったりして…ね。

コピーライターの学校、始まるよ!

 昨年は、10月から半年間、第一期「コピーライターの学校」をやりました。今年は、どうしようか、正直、迷っていたのです。それでも、よしっ!と気合いを入れて、10月20日11月10日から始めることにしました。
 長野県長野市の片隅で行われる小さな小さな講座。毎月2回、指定土曜日開講。僕のコピーライター27年間のキャリアとノウハウをすべてオープンにして講義を進めます。少人数制だから、実践的なアドバイスを盛り込み、けっこう中身が濃い内容です。興味のある方は、こちらの「コピーライターの学校」ページをご覧ください。

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「コピーライターの学校」は、性別、年齢制限がありません。コピーライターになれる、という確約もありません。ただ、言葉を使う表現の技術は、どこかで役に立つことがあろうかと思います。そんだけ~、です。

スーパーコンピュータは、いまも、お元気でしょうか

 今からおよそ17年ほど前、1990年頃、スーパーコンピューティング・ジャパンという展示会があった。仕掛け人は、アメリカの展示会エージェンシーだが、その日本における代理店の社長が僕の昔からの知り合い。僕は、ポスターやパンフレット、ダイレクトメールなど広報宣伝物すべてのディレクションを手がけた。

 当時は、いわゆるバブルと呼ばれている時期で、儲かっている企業では、億円単位のスーパーコンピュータの導入が真剣に検討されていた。

 赤坂のホテルオークラで打合せしたり、お正月休みを無視されたり、逆にアメリカの休日で作業がストップしたり、グローバルな仕事でいろいろとエキサイティングな体験をさせていただいた。僕は、英語が堪能ではないので、代理店の方の時差つき通訳が間に入った。いちばん悔しいのが、みんなが笑っているとき、そのジョークに即座に反応できないことだ(涙)。

 基本デザインに関しては、シルバーを使おうという僕の提案が通って、意外と順調に進んだ。だが、米国人がこだわったのは書体だ。当時は、マッキントッシュを使っているデザイン会社が、まだまだ少なかった。ほとんどのデザイナーは、アナログに写植指定をして、印刷所への最終納品形態は版下というものであった。

 書体が気に食わない、スマートではない、とアメリカ人が言う。書体を伸ばしたり縮めたり、いろいろ工夫しても、どうしてもNG。そこで、サンプルを見せてください、と言うと、英語のパンフレットが送られてきた。それを見て、原因がわかった。こちらのデザイナーは、日本語の書体で英字を指定していたのだ。英字の指定は、英字の書体で行うべき。マッキントッシュなら当たり前だが、写植時代のデザイナーは、あまり英字書体に馴染みがなかったのだ。

 ともあれ、米国製や日本製のスーパーコンピュータを日本国内の企業に紹介する展示会は、無事に終了した。エージェンシーの外国人から、直接、僕にギャランティが支払われた。さらさらと小切手にサインして、サンキュー、と。僕は、額面1千万円を超えるアメリカの小切手を手にして、当時は、新幹線ではない「特急あさま」に、盗まれては大変とドキドキしながら乗車した。

 やがて時代はバブル崩壊を経て、ビジネス上のコンピュータは、大型ホストマシンとワークステーションを結んで処理するよりも、ひとりに一台のパソコンとネットワークによる分散処理が主流になってきた。テクノロジーの進展とネットワークの波及が、あっという間に、ビジネスの進め方の仕組みを変えてきたのだ。

 それでも、宇宙工学や医療、最先端科学の分野では、おそらく、スーパーコンピュータが元気で活躍しているのだろう。 スーパーコンピュータという名前は、その時代の最高の演算処理を持つマシンに与えられる名誉ある称号だ。ゆえに、つねに時代を象徴するスーパーコンピュータは存在し続け、この言葉が古びることはない。スペックの最先端を走ること。それは、それ自体で、唯一無二の美しい価値を有するものと思う。

 ここ20年を振り返ると、僕は、いつも広告という立場から、コンピューティングの最前線に関わり続けてきた。では、これから先が、どうなるか。テクノロジーにとどまらず、そのメンタルな反動も含めて、どうなるか。これは、僕にとって、つねに変わらない大きなテーマだ。