ほぼ日は、10年間。持続したもんが、勝ち!

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糸井重里氏は、1980年代コピーライター・ブームをつくった立役者のひとりであり、いつも時代のちょっと先を軽くジョギングしているような存在だった。僕は、コピーライターとしては糸井重里さんよりも仲畑貴志さんをリスペクトしていたけれど。その糸井さんが、ほぼ日刊イトイ新聞を、1998年の6月6日に立ち上げた。

いまから10年前、ちょうど長野オリンピックが開催された年。僕は、長野オリンピック関連の大規模なホームページをプロデュースしていた。当時の長野市内では、ほかにホームページ制作を手がける会社がなかったのだ。僕がインターネットビジネスに着手したのは、その2年前、1996年からだった。これからはインターネットがビジネスのインフラになるぞ、と確信して、WEBサイト制作の事業を立ち上げた。Windows3.1の時代。ネットに接続できるのは、オタッキーな人でなければ無理だった。アメリカ人の建築家やインド人のプログラマーといっしょに、新しい3Dの仕掛けをつくろうとしたり、ネット上で自然保護の植樹ができるシステムをつくろうとしたり、いくらでも夢を描けた時代だ。現実的には、まだまだインターネットは一般的ではないから、当然、HP制作の依頼は少ない。郵政省関連のEコマース研究会に入って、補助金を頂戴してHP制作をやっていたりした。

そんなとき、ほぼ日の登場は、僕にとって、ショッキングな出来事であった。
ネット自体が持つ特性のひとつ、それは、個人がメディアを持つということ。パソコン通信の頃は、その特性はコミュニティを志向した。インターネットは、個人の言いっぱなしを許容して、個人の表現にステージをあたえ、個人のメディアを志向した。個人の出版、個人の放送を可能にした新たなメディアだ。あくまでも個人のメディアであり、それがマスメディアにどこまで拮抗できるか、という議論は無意味だった。というか、従来型の考え方では、マスメディアとの比較をしがちになるのだが、それをあえて個的な部分に絞り込むことによって、結果として対極の位置から、マスメディアと対等になりうる。そんなことを、インターネット黎明期の人たちは直感的に感じていたと思う。だから、わくわくできたのだと思う。
糸井さんは、素人パワーを前面に出すぞ、という格好を装って、プロの広告戦略によって、つねに読者を意識したメディア戦略を展開した。例えば、女子高生の日記がおもしろい、というコンテンツとともに、テレビに出ている有名人の日記も同時に扱ってしまう。あれよ、あれよ、という間に、ほぼ日は人気サイトへと成長した。これは、糸井さんの人脈とパワーがあってのことだ。
だが、ビジネスモデルが当初は見えなかった。どうやって収益を上げるのか?コンテンツはおもしろい、書き手はボランティアでやってくれる。そんななかTシャツを売り出したり、いろいろな試行錯誤があって、イベント的な盛り上がりがあって、あ、やっぱり、モノを売るのか、と。でも、出来たものを売るのではなく、作りながら売る。それが、とってもインターネット的で、すばらしい。マーケッティングをやりながら、制作していくこと。これはネットワークのもっとも良質な機能だ。数々のフリーウェアやLINUXというOSは、ネット文化の財産。それをもっと身近な生活レベルの商品に落とし込んだのがほぼ日ショップなのである。
コピーライター以降の糸井重里さんは、僕にとって眼が離せない存在となった。

 


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