しつけと虐待のグラデーション

時事・世相
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幼児虐待の事件が後を絶たず、なんだか、ほんとうに多くなっているような気がします。5歳の女の子が残した言葉が、あまりにも衝撃的です。胸が痛い。どんな地獄の中で、この文章を綴ったのでしょうか。

 

 

 

 もうパパとママにいわれなくてもしっかりとじぶんからきょうよりもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします

 ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおします

 これまでどれだけあほみたいにあそんでいたか あそぶってあほみたいなことやめるので もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいぜったいやくそくします

幼児虐待をして子供を死に至らしめた親たちは、一様に同じセリフを言います。「しつけだった」と。でも、当初はしつけが目的だったとしても、いつからか、しつけの度が過ぎていることを、当事者たちは気づいていたはずだと思います。だから、虐待した子供を「隠し」始める。罪悪感を抱きながら、虐待をやめることができないから、この世から存在しないように部屋に閉じ込める。自分たちの心の中では、これは「しつけ」なんだと強引に言い聞かせる。自分を騙そう騙そうとして、いつの間にか、それを信じ込んでしまい、ついには罪悪感さえ消滅してしまう。このような心の動きは、日大アメフト部の例の事件とも精神構造が似ているような気がします。

監督やコーチは、あのルール違反の指示を指導だと思い込んでいたようです。指導なんだから、悪いことをしているわけじゃない。チームが勝つために、何よりも本人の闘争心を育むために、これは必要な指導であり、しつけだと心から信じて疑わなかったのでしょう。

日本には「厳しいしつけが良いこと」という共同幻想があります。人間の性根がもともと悪であるという性悪説に根ざしているとも言えます。悪い性格は、パワーによって正しい性格に矯正しなければならない。したがって、そのパワーの行使は、善なることである、と。こうして次々と、善なることと信じるパワーが弱者を叩きのめしていきます。それでも、日本の社会は、ある程度までなら、やはり、しつけに厳しさは必要だとまだ感じている。限度を超えてしまったから、その限度を知る分別がなかったから、あいつらは罪を犯してしまったのだ、と。限度の問題なのだ、と。

この「厳しいしつけは良いこと」という共同幻想=常識は、「厳しさ」のレベルが曖昧なグラデーションであり、個々人の判断に委ねられています。「厳しいしつけ」を目の当たりにして、これは限度を超えてる、これは許容範囲だ、とそれぞれが判断しているのです。しかしその現場にいる人間は、残念なことに、加害者も被害者も、この判断が往々にして曇ってしまいます。だから、発見が遅れる。日大アメフト部の部員は許容範囲と感じていたのではないでしょうか。虐待された子供たちは、自分が悪いと感じていたのではないでしょうか。

しつけの名のもとの暴挙が、事件として取り上げられ、表面化したとき、それを知った私たちは、なんて酷いことをするんだ、なんで早く声をあげなかったんだ、と他人事のような感慨を抱きます。

では、なぜ、連日のように、繰り返し繰り返し同じような事件が起きているのですか? それは、ほんとうに他人事ですか? あいつらを悪い奴と糾弾する資格はありますか?

心静かに、耳を澄まして、ごらんなさい。表面化された事件の背景に、あなたとわたしの近くに、たくさんの声を出せない人たちが隠れています。

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