普通って、何だろう?

普通って、何だろう?と考えてみる。普通の生活、普通の教育、普通の会社、普通の給料、普通の家族…統計的にアベレージが出せるものもあるだろうけれど、おそらく普通という枠にぴったりとはまる平々凡々な人間は存在しない。誰だって、多かれ少なかれ、凸凹したところを持っている。凸凹は本来、その人間の個性であり、優劣で判断されるものではない。しかし、人間は愚かだから、うっかり「普通」というものさしを当ててしまい、そこに普通以上と普通以下という差異を見出してしまう。持って生まれた容姿が普通以上であれば美女美男であり、頭脳が普通以上であれば秀才天才と呼ばれる。天性ではなく、不断の努力によって、普通以上の学力や経済力、地位を築く人もいる。そういう人にとって普通以上をめざすのは向上心の賜物であり、人々から賞賛の対象になるだろう。逆に、普通以下と見なされれば、そう、言わずもがな、時として差別やイジメのきっかけとなるような言葉が礫のように投げかけられる。

でも、ちょっと待てよ。人が判断基準にしている、この「普通」は、確かなものなのか。いやいや、どうやら、人によってかなり異なっているようだ。朝5時に起床するワタシの普通は、朝9時に起床するアナタの普通とは違う。「普通」という言葉は曖昧だ。そこで組織や集団は、「普通」に代えて「常識」という概念を持つことによって、その共同体の判断基準をつくろうとする。それは、さらに発展して「おきて」となり、やがて「規則」や「法律」として制定されるようになり、人を裁けるほどの正当性が担保される。

ただ単に普通とちょっと違うからといって、感情によって人を裁くことは許されない。だが、集団の安全を害するほど普通とは違うのなら、危険を及ぼすほど異常であるなら、その人は法によって裁かれる対象となるだろう。このふたつの判断基準の差は、一見すると明白なように見える。しかし、それなら何故、この社会から、小さな差別やイジメがなくならないのか。人間の無意識は、まだまだ「普通」という言葉の呪縛に捉われてはいないか。理性では理解しても感情がわかってくれない。自分自身をも優越感や劣等感で裁いてはいないか。

普通って、何だろう? 自分のなかの、普通と異なる部分を、もう一度、深く、しつこく、見つめてみる。そして恥を知れ。相手に投げようとしていた石の重さに気づき、振りかざした手を下ろせ。握りしめた拳をひらき、その石を手放せ。

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