表現者が自分の表現を超えるとき

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たまたまテレビである人気グループが歌を唄っていて、あぁ、この人は才能があるけど、ちょっと食傷気味だなと感じた。詩も曲もいいんだけど、以前に彼が歌っていた曲の言い換えで、ワンパターンになってしまっている。それでも熱烈なファンがいっぱいいるから、その言霊や響きは彼らの快感中枢をくすぐって、きっと支持されるんだろうな。

僕にも好きな歌手がいて、それは個人的なマニアックな支持である。たとえば、山崎まさよしという歌手を好きだ。彼のブルージィなギターや唄い方に、僕はしびれるのである。でも、うちの家族や親戚縁者の全員から支持されているわけではない。うちの嫁は、クルマの中で山崎まさよしのアルバムをかけ始めると、一回だけね、と言う。趣味の問題だから、当たり前ではあるのだけれど、たとえば、サザンオールスターズの名前を出せば、うちの嫁も娘も息子も好きだと言うし、親戚も知っているとは言うだろう。表現というものを考えるときに、山崎まさよしと桑田佳佑は、大衆的な知名度はもちろん差があるものの、それ以外にどこが違うのだろう、と考えてみる。

表現者は、つねに自分の内部から、何か表現の衝動を感じて、それをカタチにしていくのだと思う。それが結果として、自己の開放であったり、自己の満足であったり、そのような個的なレベルで終わったとしても、それは意義のあることだ。自分のための表現。あるいは共同体の意識をまとめるための表現。それが原点だ。その表現が共同体以外の他者に対して、なんらかの効果をもたらすとき、そしてそれを表現者が自覚したとき、ステージというものが必要になる。ステージが用意されることで、個的な表現は変質し始める。50人くらいのライブハウスから武道館まで、肉声で届けられるレベルから、さらに複数のメディアに変換されることで、届けられる対象は飛躍的に増大する。ラジオ、テレビ、プレスされたCD、、インターネット配信など、メディアは個的な表現をより多くの人間に届けていくことができる。

表現において「売れる」ということが絶対的な価値ではない。少数の人にだけ、満足を与える表現。それが許容されている現代社会は、ある意味では健全であると思う。

そのなかで、「売れる」表現は、より時代の空気を読み取っている。世の中の人が欲している表現を出せば、それは「売れる」のだ。これはプロデューサーの立場からの言い方だが、逆に表現者の立場から考えてみる。表現者である彼または彼女がどれだけ、時代の空気を感じているか、それを自分のものとして捉え直し、自然な表現として昇華できるかどうか。

時代というものを背負い、大衆から期待されたイメージを演じきって、ひとつの偶像に徹することができたとき、個人は個人以外の何者かに変質する。まぁ、カンタンに言えば、「スター」ですね。そしてスターは、自我を出すのではなく、大衆に対して奉仕する存在になる。ファンに対してさまざまな手段で歓びを提供しようとする。ファンに対する「おもてなし」を感じるのは僕だけだろうか。サザンはもちろん、ユーミン、そして美空ひばり等々も、個人ではなく、ファンが期待しているイメージを演じて、おもてなしをしている。自分の表現ではなく、あなたのための表現をしているように思う。

いま、時代から求められているイメージとは、何なのだろう、とテレビの歌を聴きながら、僕はボンヤリしたのである。

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