人生を変える出会い…佐久間彪神父

雑記帖
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人生を変えてしまうほどの出会いが、一生の間、何回くらいあるのだろうか。

数ある出会いのなかで、人生に大きな影響を及ぼしてくれた人は、数えるほどしかいない。

世田谷教会のカトリック司祭を務めた佐久間彪神父は大切な恩人のひとりだ。

その訃報を、遅ればせながら知ることになった。

2014年7月27日(日)帰天。享年86歳。合掌。

佐久間彪神父との出会いは、もう30年以上も昔。たまたま結婚相手がカトリック信者だったので、世田谷教会で少しだけ教理を学ぶことになった。

カトリックの洗礼は、受けなくてもいい。結婚にはまったく関係ない、と言われた。

週一回、教会内の小さな部屋に数人集まり、佐久間神父の講義を受けた。

僕は心理学や哲学、宗教について、多少知識を持っていたから、神父に対して、無礼な質問を何度か浴びせかけた。

それでも嫌な顔ひとつせず、真摯に答えていただいた。そして佐久間神父の度量の大きさに、その都度、驚かされることになった。

それまでの僕は、キリスト教に対する先入観があった。

中世の十字軍や魔女狩り、植民地政策、侵略の方便、虚無・合理主義の遠因等々…いわゆるヨーロッパ人優越思想の背景であり、権力に偏向した教条主義、唯一絶対の神を崇めるのがキリスト教、と思っていた。

ところが、佐久間神父は、ふつうに堂々と汎神論を語ってくる。

草木や昆虫、小動物、そして夜空に輝く星に至るまで、すべてに神が宿っているという意味のことをおっしゃるのだ。

これは西洋人が蔑視したアニミズムであり、日本人の心性に触れる八百万の神…砂漠の宗教からはかけ離れた、まるで神道に近い思想ではないか。

ある時は…「僕はカトリックに出会っていなければ、浄土真宗の僧侶になっていたかも知れません」。親鸞についての造詣も深く、悪人正機説を説明しながら、浄土真宗に対するシンパシーをさらりと表明する。

宗教人としての頑固さや小さなこだわりがまったくない。

カトリックが偏狭な宗教に違いないと思っていた僕は、おそらく、この神父は教団の中では異端児ではないかと疑ったりもしたのだが…。

佐久間神父は、世田谷教会の主任司祭の仕事のほか、白百合女子大学の教授であり、童話創作、翻訳、聖歌の作詞・作曲など手がける分野が多岐にわたっていた。

ナナハンバイクを乗り回し、チェロを弾いたり、油絵を描いたり、陶器をつくったり、余技があまりにも多く、好奇心が旺盛。

外国の様々な言語に精通して、日本のカトリック教会における日本語の典礼の土台を築いた人とも言われている。

日本人では4人目のカトリック枢機卿となった白柳大司教とは親友の間柄であった。

つまりカトリック教会において、佐久間神父はきっと正統派なのである。

目の前にいる佐久間神父は、そんな業績のことは微塵も意識させず、偉ぶらず、実にざっくばらんで気さくでユーモア感覚にあふれていた。

失礼を承知で言えば、どこかの大企業の専務クラスで活躍していても不思議ではない。

聖職者にありがちな世離れした感覚はいっさいなく、一般人のコモンセンスを持ち合わせ、あらゆる状況に機転をきかせた対応のできる人物だった。

佐久間神父の夜間講義を受けて半年が過ぎた。

僕は、素直な生徒ではなかった。佐久間神父の人柄、考え方に触れて、カトリックへの誤解は多少薄れたものの、宗教そのものに対する反発心は根強く残っていた。

僕は、最後の講義のあと、佐久間神父の部屋で雑談を交わし、そして、いちばん聞きたかったことを、率直にぶつけてみた。

「佐久間神父、僕には、信仰というものがまったくわかりません」

勇気をふるって出した言葉だったが、神父は、にこやかに、こう答えた。

「僕にも、わからないよ。わからないから、一生かけて、やってみようと思ったんだろうね」

正直、気が抜けた。聖職者をめざすような人は、深い悟り、または熱狂的な信仰体験を持っているのではないか、と勝手に想像していた。

だが、この神父のひと言で「わからない」ということを動機にしてもいいのだ、ということが「わかった」。人生の羅針盤が大きく動いた。

その後、僕ら夫婦は東京を離れたが、何度か子供を連れて世田谷教会を訪れ、元気な佐久間神父とお話しの場を持つことができた。

大きな手を挙げて、笑顔で「やぁ、Kくん」と呼んでくれた姿がいまも脳裏に焼き付いている。

年賀状のやりとりは30年間かかさなかった。

最後となった今年の年賀状では、僕ら夫婦の写真を使ったが、それはある神社の境内で撮影したもの。

カトリックの神父へ、神社を背景にした年賀状である。

でも、佐久間神父からの返信には、日本人が神仏を拝む心性への心配りが書かれてあり、神父の大きな精神性はまだまだ健在だ、と夫婦で喜び合ったばかりなのに…。

大きな人。佐久間神父のような神父には、それからも出会ったことがない。

この出会いこそ、神に感謝。

コメント

  1. Betty より:

    菊池好純様
    30年前に白百合女子大学を卒業、佐久間神父様の宗教の授業を受けていた者です。佐久間神父様、という方は実にユニークな方でした。宗教の授業はいつもとても熱く、心がこもっていました。教室の後ろで私語をしている学生がいると全身で怒りを表現、教壇からチョークをバーンと投げつけ、見事に命中、なんてことも。息抜きに脱線話になると宗教に関係ない面白可笑しい話が沢山飛び出し、教室は大爆笑でした。研究室では一人窓の外を見ながら、よくタバコを吸っておられました。佐久間神父様が司祭をされている世田谷教会は私の家の近くなので、大学の先輩と遊びに伺ったこともあります。私は佐久間神父様が興味深く感じられ、もっと色々お話したかったのですが、宗教の話は詳しくないし、信者ではないので、卒業後、教会に通うこともなく、積極的に交流することもなく、時々、「佐久間神父様はどうしているのかな・・」とネットで検索したりしていました。今年の初めに闘病中、という記事が出ていて、「病気を受け入れることは簡単ではない。」という神父様のコメントが出ていて、直感で「ガンかな?」と思っていたのでしたが、まさかこんなに早く亡くなられるとはものすごくショックで悲しくて仕方ありません。闘病中、と知った時点でどうしてお見舞いに駆けつけなかったのだろう、と悔やまれてなりません。ガンが喉にまで転移しても、最後の最後まで全力でミサを捧げられていたそうです。私はお嬢様大学と世に言われる白百合を卒業後、社会人として苦しい体験も沢山して、何とか今日に至りました。できれば佐久間神父様と再会して、人生を生きることの難しさをじっくりと語り合いたかったです。菊池様は、佐久間神父様と30年も交流があったそうで、本当に羨ましいです。もっと私も積極的に佐久間神父様と交流すれば良かったです。当時は大人しくて真面目な女子大生だったのです。おっしゃる通り、こんな偉大な神父様はもうなかなか出ないでしょうね。悲しい。。亡くなる前に会いたかった。佐久間神父様の思い出につながる記事をここ数日、毎日ネットで探していたら、このブログを発見しました。佐久間神父様にまつわる素敵な内容を読ませて戴き、感謝です。有り難うございました。

  2. KIKU より:

    Bettyさん
    佐久間神父につながる方に読んでいただき、こちらこそ、感謝です。コメントを頂戴できただけで、このブログを書いて良かったと心から思います。
    Bettyさんの文章から、白百合女子大で教壇に立っていた頃の姿をまざまざと思い描くことができました。きっと、そうだったんだろうな、とにんまりしてしまいました。生前に、葬儀のときの写真を決められていたそうです。ナナハンのバイクにまたがり、手をあげている写真です。「天国へ行くよ、バイバイという感じでいいじゃない」と仰ったそうです。さすがに、遺影は上半身のみでバイクはカットされていましたが、佐久間神父らしいエピソードです。でも、こういう思い出をたくさんの方に残して、神父は逝かれてしまったんですね。楽しく自由な神父の「思い」は、いまも僕の心に生きています。Bettyさんの中にも生きています。これこそ、奇跡なんだなと感じます。感謝です。

  3. CHIZU より:

    Bettyさま
    けさ主人から、佐久間神父の、白百合大の教え子様から、コメントを頂いたよ☆と笑顔の報告をもらい、わくわく気分で拝見させて頂きました。ありがとうございます。共に何か特別なシンパシーを感じた者同士、これもきっと神父様が結びつけて下さったお恵みなんでしょうね。。沁み入るコメント、いま心が喜んでおります。
    やっぱり!佐久間神父の情熱、そして集中力、教壇でのお怒りのチョークも的を外さず命中とは…アハハ、神父様らしい!…私も思い出しました。教会のミサ中に一人のお年寄りが入って来られた時の事。「あぁ、そこの先に席が空いてますよ。どうぞ直ぐお掛けなさい!」と、最中にも関わらず素敵な低音のお声でお優しく誘導される神父さま。そぅ滅多にはおられませんよね(笑)。
    さらりと愉快で、それでいて丁寧にいつも人のために温もりを残されて来られた神父さま。その秘跡は私どもが偶然にも長野から府中の墓地へ、しかも大司教様の追悼ミサと納骨式に与れたことに繋がり、その上ゆかりの信者様にもピンポイントでお話ができ、出会え、そして今また、こうして…
    心残りな悲しいお気持ちよく分かります。私共も不調を知りつつも見舞えず、遅まきながらの訃報を時が止まったように知り、佐久間神父の面影を辿り歩くような弾丸巡礼を実行した中、大きく救われた事が荻窪カトリック教会の温もりに出逢えたことです。もしご都合が合えばお調べになってそちらへお出掛けになってはいかがでしょう?教会のお御堂内は宝探しです(笑)。そして会報が凄いんです!たっぷり佐久間神父様で埋め尽くされている追悼文(上)をそちらで頂き心から感動しました。
    長くなってしまいました。。先頃の台風一過で一気に晩秋のような冷え込みになり、肌が付いていけない今日この頃ですが、どうぞしっかり温かくなるよう準備されて下さいね。お話を聴けてとても嬉しかったです。
    chi

  4. Betty より:

    菊池好純様、chizu様
    お忙しいにもかかわらず、返信のコメントを戴けるとは思っておらず、大変嬉しく思っております。好純様とchizu様のメールを読んだら、改めて悲しさがこみ上げ、真夜中に声を上げて泣いてしまいました。ご自身の遺影の写真を決めておられただなんて、辛すぎます。。神父様も内心はこの世への惜別で悲しみで一杯だったのではないでしょうか。私は白百合卒業後、両親の勧めで看護大学に進学し、看護師、保健師の資格を取り、病棟、クリニック、企業の健康管理室等で仕事をしてきました。母は「あなたのように取り柄のない人は、結婚しても夫に先立たれたら路頭に迷うしかない。看護婦なら資格職だから就職に困らない。」と言われ、父からも同様に言われ、迷いながらも看護の方向へ進んでしまいました。「進んでしまいました。」と書いたのは自らの決断で選択した進路ではなく、親に背中を押されての結果だったからです。でも、看護という仕事に「尊さ」が感じられ、きっと大変な仕事だろうな・・と想像しながらも、高校もカトリックだった私は、一つ、奉仕の仕事をしてみよう、と頑張ることにしました。しかし。。初めて就職した病棟は想像以上に苦しい毎日でした。努力しているつもりなのに失敗ばかり。患者さんから、「もう来ないでちょうだい。」と言われ、ドクターからも怒られ、ボロボロでした。汚れ仕事も沢山ありました。でも、一番辛かったのは、長くケアして来た人が一人、二人・・と亡くなっていくことでした。ガン病棟だったので仕方ないのですが、新米の私には、人の死は辛くて気分転換しようと思っても気分転換はできませんでした。汚れ仕事は手を洗えば綺麗になるけど、心の痛みは簡単には拭えません。心は毎日うつ状態で、それでも私は誠心誠意、患者さんに尽くそうと努力しました。病棟は3年で辞めましたが、他の職場でも様々な試練が私を待っていました。そんな社会人生活を佐久間神父様に聞いて貰って、コメントを戴きたかったです。そして私の看護師経験から得たことを携え(僅かなものですが・・)、神父様のお見舞いに行きたかった。会えずに逝かれてしまったのはつくづく残念です。先月27日の納骨式もクリニックの外来の仕事と重なり、参列できませんでした。が、11月5日の12時から白百合で物故者ミサがあるので、それに出席し、神父様を偲ぶつもりでいます。そしてその帰りに、晩年に神父様がミサを捧げておられた「荻窪教会」という所へ行ってみるつもりでおりました。Chizu様、貴重なアドバイスを有り難うございます。佐久間神父様の思い出に関係する物を少し戴いて来ようと思っています。白百合時代の佐久間神父様のユーモアあふれる授業中のコメントをもう一つご紹介します。難しい神の話からそれて神父様がおっしゃるには、「僕の教会の近くにポルノ映画館があってねえ・・映画館の前に立つと僕も男ですからねえ・・。ああ、女の人の裸っていいなあ・・って思うんですよね。」と天然パーマの髪をかき上げながらおっしゃり、教室中、爆笑の渦でした。本当に楽しい神父様でした。30年もお会いしなかったのにこんなに悲しいのは、きっと私の心の奥底に、神父様の人を思いやる暖かい精神が南十字星のように宿っていたからでしょうね。私も悲しみから立ち直れるよう、精一杯努力します。好純様、chizu様、心暖まるメッセージ、本当に有り難うございました。

  5. 山路祐里栄 より:

    1987年、流行の音楽を聴いている途中で、電車の窓から十字架を発見しました。丁度歌詞が「十字架を背負い…」と言う所へ差し掛かった時です。
    それから教会を探し、カトリック世田谷教会にたどり着きました。初めてお訪ねしたのは、金曜日の夜に開かれているカトリック入門講座の時間でした。
    ウロウロしている私を、講座が開かれている部屋へ案内して下さったのはある有名大学の理事長さんでした。その方は元々プロテスタントの方でしが、カトリックへ転会?なさるべく再度勉強をし直していらっしゃる所でした。
    何度か金曜日の夜に伺ううちに「日曜日にいらっしゃい」と佐久間神父様から、直接にお声掛け下さいました。初めて日曜日のごミサに出席させて頂き、まだ信者ではないので祝福を授けて頂きました。何故か「この方は私を支えて下さる」と感じました。未だに根拠は判りませんが。
    クリスマスのごミサの後の懇親会の時だったと思います。「きみ、来年の復活祭に洗礼を受けないかい?」とお声をかけられたのです。私は「まだ教会の事も、聖書の事も信仰も判りません。ちゃんと理解してからにします」と生意気に答えました。すると「それは一生かからないと、判らないだろうね。実はね、僕もあまり判っていないんだよ。だから一緒に勉強していかないかい?」コケそうになりました。 でも、こんな正直な方なら信じられるとも思った瞬間です。
    それから、金曜日の夜と日曜日の朝に教会へ行くのが楽しみになりました。
    翌1988年4月2日、洗礼を授けて頂きました。

    生意気な私は「洗礼名を自分で決めたい」と言いましたところ、ぶ厚い聖人伝を二冊渡され「じゃあ、この中から選んでみなさい」と。勿論、読み切れず、決められず「ダメでした。自分で決められませんでした。申し訳ございません」と頭を下げて聖人伝二冊をお返しした時「そう言うもんだよ。お恵みだからね。」と。そして、もう全部お任せしようと決心しました。
    洗礼式は私を案内して下さった有名大学の理事長さんのご令嬢、ご子息も一緒でした。まだ寒いはずなのに、ホンワカ暖かく感じたのが印象に残っています。
    翌年は長い間、憧れていた国への旅行が実現しました。勿論、訪れた先の国の教会で買った御影をお土産にお渡ししました。

    その後、私は障碍を得てしまい、教会へは中々行く事が出来なくなりました。ただ友人から猫を譲り受け、その際に久々に教会へ行き「猫に洗礼を」と言う、これまた生意気かつ無理難題を押し付けようとしたのです。佐久間神父様は優しく「猫は人間の言葉が分からないからね。でも、祝福はしてあげられるから」とおっしゃり、有り難く「リーゼ」と言う愛称まで下りました。

    佐久間神父様の訃報を知ったのは、帰天されて一カ月後くらいに同じ教会の友人からのメールでした。

    友人は府中墓地の納骨の際、立ち会えたようですが、私は無理でした。悔しく思います。外出が可能になれば墓地を訪ねたいと考えています。

    まだまだ教会から離れてしまっている私ですが、引き戻される様に自宅でのお祈りをする日々です。

  6. KIKU より:

    山路祐里栄さま
    佐久間神父との出会いがなければ、という方が、ここにもいらっしゃったんですね。
    「それは一生かからないと、判らないだろうね。実はね、僕もあまり判っていないんだよ。だから一緒に勉強していかないかい?」
    これは、ぼくも言われました。すごい口説き文句ですよね(笑)。
    それ以来、ぼくのなかの好きな神父の基準は、
    わかっていないことを前提にお説教してくれるかどうか。
    意外と少ないのですよね(笑)。でも、いますよ。
    自分の言葉で、自分の感性で、誠実に素直に語ってくれる神父。
    佐久間神父から、ぼくは大切な信仰の姿勢をプレゼントされました。
    いまだに、不器用で、成長できない、不出来な人間ですが、
    天国から、笑顔で見守ってくれてるように思います。
    辛いことばかり多い人生ですが、生きましょう。

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