Yesのちから、Noのちから

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社会が変化するとき、理想や夢の存在は方便に過ぎないのではないか。Yesということにどれだけの力があるのだろうか。いまのままじゃ嫌だ、誰かが嫌いだ、Noという力が社会を動かしていくのではないか。とってもネガティブな考え方だけれど、人はある人を賞賛することよりも、ある人を否定することで心がまとまっていく傾向にある。今回の政権交代の本質は、Noの力に依存していて、だから具体的な政策に対しての民意は必ずしも民主党のマニフェストにYesではないのだ。

ある集団が動くとき、共通の夢や理想に向かうとき、仮想もしくは現実の敵をつくってしまうことが多い。そうしなければ、その夢の正当性を確信できないのだろう。新興宗教が勢力を拡大していくプロセスで排他的になってしまうのも、そういう理由だ。こういう人間の悪しき性質は、その動きのただ中にいると気づくことが難しい。

親鸞は自分のことを非僧非俗と言い、組織の外に置いたようだ。そこにしか、正しさの置き所はないのかも知れない。でも、凡俗の我らにはそれは難しいよね。そんなことを思う秋の夕暮れでありました。

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