プロフィール

菊池代表の近影写真
株式会社イデア・プロモーション
代表取締役
菊池 好純
Koujun Kikuchi
1957 昭和32年 東京都新宿区生まれ
1960 昭和35~47年 武蔵野の面影を残す杉並区で3歳から15歳まで

ひまわり幼稚園、四宮小学校…
幼稚園のとき、ヴァイオリンの音色に惹かれる。親にねだって、ヴァイオリン教室に通う。だが、思っていたより、気持ちの良い音色が出ず、やがて嫌気がさして、約1年間で挫折。
小学校3年生頃、子どもに夢を与える素敵な職業だな、と漫画家を志す。手塚治虫、石森章太郎に憧れ、ベレー帽をかぶり、カラスグチで線を引き、手作りの漫画雑誌を友人と発行。
小学校高学年時、野球に夢中になり努力の日々。憧れの長島をめざして、三塁手、三番バッターのポジションを手に入れる。同時に、サッカー部のレギュラーにもなり、釜本に憧れ、フォワードで得点王になる。
小学校卒業間際、ガガーリンの逸話に影響され、宇宙飛行士をめざす。アマチュア無線電話級の筆記式試験に独学で合格。小学生の合格者は当時珍しかった。秋葉原に通って、ラジオを部品から集めて、何台もつくった。
読書は、図書館の幻想小説にはまり、週1冊以上のペースで読破し、先生に不信の目をもって見られた。
将棋はクラスでいちばん、運動神経もよく、絵も誉められ、周囲の小学生が子供っぽく見えた。天狗だった。反省。
中瀬中学校…
同じ小学校の子が少ない中学校だったため、人生をゼロからやりなおそうと決意。バスケットボール部に入り頭角を現すが、1年でオスグット病になり休部。この頃より、挫折感を味わう。帰宅部になり時間をもてあまし、読書三昧。新潮文庫の龍之介、鴎外、太宰、安吾、ヘッセはすべて読破。ランボー、デュカス、朔太郎、中也、パスカル、デカルト、海外の推理小説など、文庫本または図書館から借りて、手当たり次第に読み漁る。初めて買った全集が「ランボー全集」、その生き様に感動。深夜放送とジャズに没頭し、寝ぼけ眼で新宿のジャズ喫茶に出没。
長谷川きよしの別れのサンバに感動。姉が放置したクラシックギターをもらって、ギター演奏の日々。コードの伴奏からソロギターの面白さにめざめ、ほぼ毎日のようにギターを独学で練習。中学三年生の頃に、アルハンブラ宮殿の思い出を暗譜。下手ながらも、演奏できるようになる。

中学三年の秋、親の都合で埼玉川越市に引っ越す。だが転校はしないで、中瀬中学校を卒業する。川越から、通学の途中、池袋の路上テレビに人が集まって見ていたのが連合赤軍の事件だった。

1972 昭和47~55年 埼玉県川越市にて高校から大学まで
朝霞高校…
暗い感じの読書癖は継続して、いつも睡眠不足、貧血気味。SFのカートヴォネガット、PKディック、筒井康隆など、背伸びして、ニーチェ、ドストエフスキー、フロイト、フロムなど、ショーペンハウアーの「意思と表象としての世界」に呆然。
映画にも興味を持ち、池袋の文芸座に学校をさぼって出没。2本立てで150円也。これは喫茶店代と同額。喉の渇きを我慢して、映像の飢えを満たすを選ぶ。マニアックな作品をよく観た。
クラブ活動はクラシックギター部に所属。姉から譲り受けたぼろぼろの安ギターで、部活には、あまり熱心ではなかった。反省。聴くのは、当時流行のロックには見向きもせず、もっぱらジャズばかり。指がよく動くからという理由だけで、学園祭ロックバンドにリードギタリストとして加入。同じ頃、もの好きな同級生が映画つくりに燃えていて、学園祭用の映画製作に誘われる。高校生だからね、初恋らしきもの、ちらほらと体験した、かもね。
大学へは進学するつもりがなく、在学中、いっさい受験勉強せず。しかし、父から説得されて、新聞配達をしながら自宅浪人。この頃、早起きの得で、UFOをしっかり目撃する。霊的な現象にも多数出くわす。
國學院大学…
ジャズ研に入ろうとテナーサックスを入手するも、いまいち肌に合わず、友人に譲り渡す。たまたま大学構内で観た学生演劇がテント公演で本格的な舞台に驚く。寺山修司の天井桟敷や唐十郎の状況劇場とも交流があった演劇研究会に入部。野田秀樹の夢の遊民社が東大で旗揚げ公演の際は、舞台装置のパイプなどを大量に貸し出す。小劇場運動にすごい勢いがあった。黒テント、紅テント、東京ボードビルショー…アスベスト館では暗黒舞踏に感動する。部活では一年生で制作雑用、二年生で創作シナリオと演出および劇中音楽の作詞作曲を手がけた。音楽のアレンジはジャズ研の鷺巣詩郎がやってくれた。後に笑っていいともの音楽クレジットにでてくる男。三年生になった頃、演劇に飽きてあっさりと退部。入れ替わりに一年生で入部してきたのが、後に放送作家として大成した成田はじめ。鷺巣とも成田とも、在学中にもっと親しくしておけば良かった(笑)。
退部して、暇になったので、小説を書いてみる。某SF雑誌の新人賞に応募、最終選考の6本に残るが落選。その後も編集長に、何回か作品を持参して見てもらう。採用ならず、挫折の日々。卒業が近づき、コピーライターにでもなろうかな、と編集長に相談。「就職するなら、小説家を諦めなさい」と言われる。広告業界のことも一切知らず、様々な広告会社に応募するも不採用。大学卒業後、半年間、マーケティング会社でアルバイトをしながら、宣伝会議のコピーライター養成講座に通う。いわばフリーター、就職浪人。
大学時代の読書は、埴谷雄高、吉本隆明、夢野久作、ユング、ウィトゲンシュタイン、ノヴァーリスなど雑多。
1980 昭和55年~ 秋、途中採用の枠で入社試験を受けて合格。広告代理店・東京アドバタイジング入社
デサント、オガサカ、日本専売公社等の広告コピーを手がける
コピーの師匠は故新見志郎氏(TCC審査委員長)
世田谷区経堂にてひとり暮らし、毎晩、下北沢に出没。読書からやや遠ざかる。
1983 昭和58年 退社後 中型バイク免許取得 信州を旅する
都内の広告制作会社をエンピツ1本で数社渡り歩く…
ソニー、NEC、小学館、ブルドックソース等の各種広告物制作
ニコン、セブンイレブンのPR誌編集、営団地下鉄のマナーポスター制作
結婚を機に酒びたりの生活を改める ふたりの子供に恵まれる。読書からさらに遠ざかる。
1990 平成2年3月 バブル絶頂の東京を脱出 長野県鬼無里村にアイターン移住
長野市の広告制作会社エイブル入社。片道40キロの自動車通勤で、読書の時間なし。
1991 平成3年 ニッサングループの新聞広告で信毎広告大賞ほか同時受賞
以降、戸隠村ポスター、KOA会社案内、トライアンCIなど
多数の広告物の制作にコピーライター、ディレクターとして関与
1996 平成8年 インターネット事業に着手、長野市、長野県のHP制作ディレクション
長野オリンピック関連の広告ディレクション、またHP制作のパイオニアとして多数の企業行政のHP制作に関与
1998 平成10年 長野市 飯綱高原に転居 標高1000メートル、長野駅まで約10キロ。
2000 平成12年 テレビ局のキャラクター開発プロデュース
2004 平成16年 飯綱の住民と共同で稲作開始~2009年までの5年間
2005 平成17年6月 エイブル退職 フリーランスとして独立 イデア・プロモーション起業
2007 平成19年4月 NPO法人 飯綱高原よっこらしょ設立 副代表理事就任
2008 平成20年12月 法人化 株式会社イデア・プロモーション

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